フクシマ・ノート#7
第二の敗戦と日本的特攻の狂気再び

● 南相馬市ダーク・ツーリズムの先行例

 311の直後から南相馬市は、津波被害と原発事故被災の複合災害の入り混じる地域として格好の野次馬最前線になった。まずフリーのジャーナリスト、カメラマン、単純な好奇心からの訪問者が相次いで殺到した。
 政府の救援と防犯を兼ねた警察と自衛隊が、派遣されたマスコミ各社の記者たちとともに3・16の朝、一斉に被災地から姿を消して情報の空白時期の地元発信が途絶えた時に、かすかな情報を発したのは、特別公務員とマスコミ社員の流れと逆行して流入したこれらの野心的なフリーランスの自己責任覚悟の来訪者と「野次馬」がインターネットにアップする確認不能の情報だったが、生の素材であるだけに信憑性を超えた驚きと興奮があった。
 説明できない衝動に導かれるままに被災地を訪問したい欲求は、まずマスコミに映じたかすかな断片的現地情報で刺激され、膨れ上がった「何が起きているのか自分の目で現場を見てみたい」という健全で能動的で、好奇心に恵まれた人種特有のものだったろう。
 情熱に突き動かされたのは、もちろん人智を超えた混乱に乗じて、人のいなくなった双葉郡全域から南相馬市小高区まで軒並み緊急避難した後の人家に侵入して窃盗して回った犯罪者の劣情も含めて。
 それというのも、わたしが311まで執筆していたのは「原町憲兵分隊秘史」と題する、戦時中および戦後の南相馬と福島県浜通りを分掌した原町憲兵隊が、陸軍原町飛行場の建設から終焉までの6年間の犯罪と治安の歴史をドキュメントとして発掘取材した記録であったから、66年目の第二の敗戦ともいうべき「311津波と原発事故」こそは、追体験から実体験への画期的なエポックだったから脳髄の芯がしびれるほどの知的好奇心を覚醒・陶酔させる事態だった。
 「8・15戦災と3・11震災」という本が第三文明社から出版された。東北地方を襲った米軍空襲と東日本津波と原発事故を重ね合わせて論考した内容だ。
 284pに「私は原町空襲について」「資料をあさってみたが、公的な資料は皆無だった。あるのは、二上英朗編原町空襲の記録ぐらいである。東京では目にすることができない資料だ」「私は、その資料を立川市の図書館を通じて、福島県立図書館から取り寄せてもらった。その資料を踏まえながら、原町空襲の体験者に取材するほかなかったからである」
 著者の片野勤という人物もまた初期のわが故郷へのダーク・ツーリストだった。
 電話一本よこせば彼の記述の誤謬も出来たし、その後の情報も教えてあげられたのだが、東京での情報を中心にものを考えて天下国家を論じたいらしいので、こちらからガイドを申し出ることはなかったのであるが。

 ●311の現場に来た訪問者にもテーマがある

 津波と原発事故の被災地となった南相馬市には、突然降って湧いたように各種誕生したばかりのNPOが嵐のようにやってきて、人口の九割が避難してゴーストタウンになった時期には、都市機能が麻痺して新聞も郵便も配達されず、行政は通常業務不能。
 2011年の夏8月の終戦記念日をはさんで、私は姉から頼まれて「復興のための南相馬百年写真館」という連続展示会シリーズの「野馬追・原町空襲・無線塔」と題する特別展示を銘醸館ギャラリーで行った。
 銘醸館とは南相馬市原町観光協会が所在する大正時代の文化財建造物を改築した多目的ギャラリーで、原発事故の直後に大半の市民が市外に避難して戻らず閑古鳥が鳴いていた。だれでもいいから、何かイベントをやってくれという悲鳴を上げていた。行政施設はすべてが市東部の海岸地帯の津波被害者および双葉地方と小高区の原発事故被災者の駆け込み寺と化してケアするだけで手いっぱい。文化の中核だった博物館にも百人の避難者が逃げ込んだまま避難生活をする場になって、超過勤務に堪えながら全職員は寝具や食糧やらを手配していた。
 市民文化会館ゆめハットという市役所の正面向かいに建っている施設は、緊急救援に来訪した自衛隊員たちの宿舎になっていた。図書館は膨大な蔵書が書棚から一斉に激震で吐き出されて散乱し、閉館したまま通常業務できずに職員も避難者ケアに振り向けられていた。従ってそれまで連続10回に及んだ私の連続展示もストップしたままだった。
 この時期が過ぎて、三々五々帰還者が戻ってくると、数少ないホテルのレセプション大広間が独占的に貸し切り状態になって、シンポジウムの連続というイベント企画ばかりが人口6万余のさらに6割ほどの帰還者を奪い合うように、競合しつつ開催されたのが不気味なほどだった。
 ゆめハット(南相馬市民文化会館)で京大原子炉研究所の小出教授の講演会の日には、同じ会館の別なホールで地元商工会の「復興商工会のありかた」をめぐる講演会があった。
 仮設にいる多くの市民と、双葉からの避難者のためのさまざまなイベントが組まれ実行されつつある。平凡な文化行事は、それらにはじき出されたままであることに、私の姉は憤慨したようだ。「復興というなら文化的な生活も必要なのに」と主張するその姉のためにも2011年夏の「思い出の市民イメージを復興のシンボルに」というテーマで、わが故郷の百年史のエキスをセレクトして40枚の額装にして、極端に減少した故郷の町まで車のトランクに積んで運搬したのであった。
 2012年6月に、川崎市高津区9条の会の有志が津波と原発事故の被災地訪問に来訪する機会に現地ガイドを頼まれたので大サービスして「関東大震災と無線塔とブラジル移民の戦後救済運動」をテーマに「菅山鷲造祖国を救う」展示会を開催した。
 同年11月には東北産業遺物愛好会というグループが、相馬地方の「産業遺物と戦争遺跡」探訪のガイドを依頼してきたので、ツアー日程に合わせて産業遺物として「無線塔」の跡地を、戦争遺跡には「原町飛行場」跡地を案内し、これらの解説を中心に集合場所の駅前の図書館ギャラリーで特別展示をした。

● 強権秩序下の戦争と戦後の無政府混乱をトレースする「戦争展」

 未曽有の災害となった首都圏の関東大震災で、南相馬市にあった原町無線塔が対米国際無線局として数奇な運命を担って、劇的な活躍を果たしたエピソードを2014年の主要な特別展示に結実させた博物館事業が軌道に乗ったオープン前日の最終監修指導の折に、博物館長に「来年は終戦70周年で戦争と平和の展示をやらねばなりませんね」と提言した。
 2015年という終戦70年の夏をどう過ごそうかと思いながら、昨年の5月の連休から準備してきた。
 私のフィールド・ワークの主戦場である福島県浜通り南相馬市には、かつて陸軍飛行場が存在し「原町陸軍飛行場ものがたり」という著書をまとめたのは戦後50年の1995年のこと。あれから20年の歳月がたち、歴史研究の積み重ねで多くの詳細が判明してきた。特に今年3月15日に、熊本県の民間団体がアメリカ公文書館から1945年の日本本土空襲の戦闘機に搭載したガン・カメラで撮影したカラー実写フィルムを購入して公開した。これは1970年代の日本全国の「空襲を記録する」市民運動や、アメリカ国会図書館から原爆投下の記録フィルムを購入して日本で再編集して上映する80年代のテン・フィート運動に連なる民間主導反戦平和運動の後継の現在形だった。
 こんにち日本の国会図書館も米国議会図書館から資料入手しデジタル公開しており、本土空襲を戦後現地調査した記録した「米国戦略爆撃調査団報告」の詳細な資料がネットで容易に入手できるようになった。
 私が同じ資料の原町空襲部分をワシントンまで出向いて個人で入手した30年前に比べれば、ネット環境の整備は目覚ましいものがある。
 こうした研究を折に触れては南相馬市の郵便局や図書館などの公共ギャラリーで写真展示会として開催し、かれこれ16回を数える。
 6月の沖縄平和デーには「原町特攻隊の群像」、8月の終戦記念日には「原町空襲の記録」を主題に原町陸軍飛行場の歴史を市民に紹介した。
 その総決算として9月6日から10月12日まで市立博物館で「原町飛行場と戦争」と題して東日本震災復興特別展示会の監修を行なった。
 70年前の先人たちは敗戦の秋を、どのように受け止めたのだろうか。肌寒い秋涼の空気と虚脱感と未来への不安と、たぶん空腹とかすかな希望と埃っぽい焦燥感だったろうか。
 311から4年7か月目の今夏は、自衛隊から除染作業員に代わっても埃っぽい制服の他県の男たちがコンビニに溢れて、まさに終戦後復興期の混乱にも似る。

●特攻隊に群がった安直マスメデイア

 今年1月から原町ネットおはようドミンゴ「雲雀が原ものがたり」「あの日の空も青かった」というWEBサイトを開設したため、今夏のマスコミの終戦70周年記念番組の取材やリサーチが殺到した。
 基本的に新聞もテレビも暦で動くので、夏の終戦記念日には戦争特集の記事や番組が集中するのは恒例だが、今年の特徴は「特攻」ばかりがもてはやされるという点が際立っていた。
 おそらく昨年の「永遠のゼロ」日本アカデミー賞受賞や、主演の岡田准一がNHK大河ドラマで通年露出度が高かったこと、特攻隊ものが日本人のお涙ちょうだい嗜好にジャストフィットしたからなのだろうが、これに飛びつくテレビ制作者の安直さには驚く程だった。
 ざっと電話でリサーチのあった代表例をあげればフジテレビの「私に戦争を教えて下さい」ではオムニバス構成の一本が南相馬市原町の特攻隊員と交流のあったかつての少女が87歳になった今、女優の千葉すずが体験談を聞きに来訪。インタビュー対象の女性は原町飛行場で訓練した陸軍特攻隊の「進襲隊」の久木元少尉との淡い交流を語った。彼女が回顧録「いのち」(白帝社)という本を出版しているからだ。
 テレビ朝日は第一回の陸軍特攻「万朶隊」の隊長岩本大尉を追ったドキュメンタリーで、編成部隊は鉾田飛行場。原町は鉾田の分教場だったので、特攻訓練した隊員も多い。
 原町飛行場や鉾田飛行場の古い写真はないか、当時のことを語れる関係者を紹介してほしいというのがマスコミからの要請である。
 地元のTUFはTBS系列の地方局だが、海軍神風特攻隊の第一回敷島隊員である地元の原町生まれの中野磐雄という一等飛行兵曹の短い19年の生涯を、特にフィリピンの出撃地のマバラカット飛行場のある街で個人博物館を開設したフィリピン人男性の情熱と絡めて描いた長編だった。しかし中野磐雄という主人公を描きながら、昨年1月に発表された文藝春秋の「敷島隊の真実」は反映されていなかった。

●19歳の少年特攻兵の無念を忘れない

 昨年10月25日に、南相馬出身の神風特攻隊第一号の最後の慰霊祭が行なわれた。
 神風特攻隊の第一号である敷島隊が、昭和20年の同日にフィリピンの日米両軍の最前線のオルモック湾で米国艦隊の空母に体当たり攻撃を挙行してから70年たった。隊長関大尉に続く二番機に乗っていた当時十九歳の中野磐雄一等兵曹は南相馬市原町区の出身で、遺族や同級生らによる式典に参加した。
 毎年恒例の顕彰慰霊祭は夜の森公園の記念像前で開催されてきたが、主催者の同級生は90歳になり、高齢ゆえ今年で終了するという。すでに戦争の記憶は遠くなった。
 国民学校と呼ばれた小学校で、狭い町内の子供たちが遊んだ夏の河原での水浴や、本陣山でのごっこ遊びなど、土地に根付いた記憶とともに、昭和の思い出を主催者から聞いた。
 国策とはいえ、戦争は若い世代の命を犠牲にし、純粋な愛国心を持った少年飛行士は時代の制約の中で精一杯の生命を燃焼させた。平和な後世の平和で豊かな時代に生まれ育った私どもは、彼ら戦没者の人生で果たせなかった多くの夢を背負って、彼らの無念を忘れてはならない。
 原町の歴史のエポックとして書いてゆきたい。
 大正14年生まれの南相馬の中野磐雄少年は予科練に入って猛烈な肉体と精神の鍛錬に耐えて、世界最先端の零式戦闘機の乗り手になった。快活に酒を飲み、寡黙ながら東北人らしいねばりで困難を克服してきた。
 南方ソロモン海戦の日々に、中野少年は着陸事故で同期の戦友をころしてしまう。自分のプロペラで戦友はずたずたに切り刻まれて死んでいた。処分はされなかった。戦争とは非常時だ。国ために、という最大目的の前に小さな人間感情も殺されていった。重い鬱屈のこころに差し込んだのは、かつての教官が示した「特攻」の道だった。少年の記憶から、かつて中国戦線で、敵を撃墜してなお体当たりの空中衝突で二機目の敵をしとめ、とともに散って行った英雄の逸話が浮かんでいた。
 司令から「生還を期さない250kg爆弾を抱えたままの必中必殺の戦法」への参加を要請されたとき、隊長の関行男も隊員もすべてが逡巡して黙った。しかし居合わせた甲飛時代の旧教官が「行くのか行かんのか!」と責問するやいなや、軍隊式の教育は反射的に、全員が一歩踏み込んで「諾」と反応したのだ。
 しかし記録映画で撮影されたフィルムは改ざんされ、日にちもストーリーも作られた「演出」のもとに、戦果をあげた者5柱だけが新聞に発表され、ともに出撃した他の隊員は切り捨てられた。これは真珠湾内でひとり捕虜となって歴史から抹殺された特殊潜航艇の特攻酒巻大尉の例から終始同じだった。10人出撃したが「9軍神」と発表されたのだ。
わが子、わが夫と信じて銀幕に写った最後の雄姿は、じつは国策日本ニュースは切りつなぎ合わせられた合成の画面であり、新聞に載った美談も創作だった。
 文藝春秋1月号には、この「特攻隊という美化」の創作の事実が当時の軍医の証言で語られたのである。
 カミカゼは奇妙な世界共通語になった。海軍は「しんぷう」と呼びならわす。ゼロ戦という言葉もなかった。「れいせん」である。陸軍特攻は、先手を海軍に獲られた嫉妬から追いかけるように「命令」による選抜でひな鳥のような隊員まで投入した。
 初戦の特攻の大戦果は、米軍の対空防御の前にたちまち効果をうしない、狂気の嵐は、美化されながらこの国の国民性への疑義をはしはさまぬように、あらたな時代の「神話」をまた作ってゆく。

●特攻が志願だったという神話

 カミカゼという名称は、欧米英語圏では「特攻」という自殺攻撃と同義語だが、厳密には陸軍の特攻を意味しない。陸軍では特攻作戦の通称は最も多いのは「と号〇〇隊」「振武〇〇隊」と通し番号を与えられていた。当時はわざわざ特攻航空将兵を「神鷲」と美称したり、昭和17年の学徒動員後の学生上がりの即製パイロットを「学鷲」と読んだりした。
 一般名詞になっている「カミカゼ」というタイトルで、アメリカ人デニス・ウオーナー&ペギー・ウオーナー夫妻が著作を出している。徳間書店が文庫で出版しているが上巻カバー写真には「ドキュメント神風」という大きな題字に、陸軍特攻八紘隊「勤皇隊」隊長の山本卓美の出撃直前の写真が掲げられており、特攻にうるさいオタクには「間違いではないのか」という印象さえ感じさせる。国際語「カミカゼ」と、原義の海軍語「神風」との語義に差異あるゆえんである。
 
●戦争を知らない第二世代の記者たちはどう動いたか

 TBS系列の地方局は、昨年の太平洋開戦記念日12月8日に「千の証言」シリーズのオムニバス番組で、旧原町陸軍飛行場で擬装網を作り陸軍特攻隊「国華隊」を見送った女性のインタビューを全国放送した。これは実はタネを明かせばTBSの担当部長が原町生まれの母親を番組に使ったのだ。福島県内はTUFという福島市にある地方局が担当する。こちらは海軍特攻第一号「敷島隊」の原町生まれの中野磐雄を終始追いかけた。
 県が51%株を保有するFTVはフジテレビ系列だが、南相馬市の国重要無形文化財の相馬野馬追の祭場地である雲雀が原になぜ飛行場が出来たかという歴史を背景に紹介した。笹川千穂という25歳の入社3年目の地元いわき市出身の女性記者が担当した。
 これはわたしの専門分野なので、密着取材して番組収録にも同行した。
 地方民間会社にはKFBとかFCTなどもあり、それにNHK記者やデイレクターたちが加わる。それが一斉に終戦記念番組やニュース特集に走った夏だった。
 これらのテレビ番組撮影打ち合わせの合間にも、ひっきりなしに新聞記者からの問い合わせの電話がかかってきた。
 面白いのは、これらの記者たちが25歳からせいぜい33歳ぐらいの若い世代の、しかも同期半数が女性なのだ。
 共通するのは、みなデスクの命令で忙しく交通事故や火事、タクシー強盗などの社会面をフォローしながら、時間の合間を盗んで戦争特集にも取り組む。正直言って戦争テーマ専念に腰を入れた時間はとれない。
 だからいったん面会すると、たいて3時間から4時間ぶっ通しのレクチャーになる。
 自分でコツコツ情報を拾い歩く時間の余裕なんてない。一気呵成にネタ選びから、基本的な知識まで、仕込んでしまうのだ。
 讀賣新聞福島局の大月美佳記者はすでに4月からアプローチしてきた。「イギリスの戦闘機が福島県内に撃墜されて、搭乗パイロットの甥がBBCでインタビューで伯父の捕虜体験を語ったニュースがあるので、これをフォローしたい」と精力的で熱心だった。
 同じ讀賣の南相馬通信部の森記者は、原町飛行場の私の著書を市立図書館で借りて来たと行って、特攻隊を送り出した少女で地元では有名な俳句作家を取材してきた。
 朝日新聞の江戸川夏樹記者は、特攻隊が宿舎となった原町の柳屋旅館の小学生だった息子が老年になった今、普段気さくで優しい若い隊員が庭で軍刀を振って竹の試し切りをする鬼気迫る形相の記憶についてスケッチするいい記事を書いた。
 NHK福島放送局の若い25歳の長谷川という男性記者は福島県内いわき市の出身だと言う。地元のネタでやりたいと言うので、いわき小名浜からは風船爆弾を飛ばした例を指摘して、海岸線から風船打ち上げする光景は軍事機密だからとの理由から、列車の窓を管理区域では遮蔽を命じられていたことを教えると、「うちの母には風船爆弾にかかわった友人がいると言ってましたからやってみます」と、そのネタに飛びついて意気揚々と帰って行った。
 NHK仙台放送局からはSという女性記者が、終戦記念日直前になってやはり原町飛行場の写真はないかと聞いてきた。時間的に間に合わなかったのか他で間に合せたのか、そのまま中途半端に取材のフォローもなく、放送しっぱなしというものも多い。

●わずか6年間の陸軍飛行場 パイロットだけで戦争はできない
 こうして嵐のように8月はやってきて、嵐のように通過してった。
 現場でフィールドワークをしている原住民ともいうべき定点観測者として、何十年ものあいだ地元の郷土史を発掘し記録しているわたしには、こういう接点は数十年に巡り合わせた特別な年だった。
 一昨年は関東大震災90年の年だったので、あの大惨事をアメリカに打電して世界中から救援の絆となった原町無線塔という最初期の国際無線施設の歴史を博物館で特別展示したが、今年は終戦70年で原町飛行場と特攻隊や空襲などの歴史を扱った。
 原町無線塔はわずか6年間しか使用されなかった。
 原町飛行場もまた、わずか6年間しか使われなかったという暗合がある。
 戦争で町起こしなんてできないのである。国策に乗っかって、隆盛を図った例としては、大熊町、双葉町の福島第一原発がある。
 終戦70年に、これらの双葉地方の小邑が米英軍の機動艦隊の艦載機による空襲の実写フィルムが日本で公開され、夏には再び繰り返し放映された。
 311以後のわれらの土地が「第二の敗戦」と呼ばれるのは、無理もない邂逅ともいうべきだろう。
 この一年半、終戦70年のためにイベントのために取材をしてきたが、この夏はマスコミ対応で明け暮れた。主に現地採用された地元の軍属整備員の生存者を中心に発掘しインタビューしてきた。「わたしごとき軍属のために心を配って頂いて感謝」という礼状が、最大の領収証となったと思った。

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