境界線上の二つのゴミの山
 福島浪江線の(国道114号線)を走ってゆくと、双葉郡浪江町津島と伊達郡川俣町山木屋の境界あたりに、実に美しい峠の森があり、杉の木立ちのきれいに並んだその中に、不法投棄されたごみの山がある。
 県道原町川俣線の境界付近の道路に沿ってゴミの投棄された場所が連なっている。これも不法投棄によるものである。
 飯舘村比曽と川俣町山木屋との境界の険しい山道の路傍にも同じくそれなりの規模でゴミの山。
 しかもたいていの場合、ごみの集まっている場所は決まって境界線をはさんで適当な距離をおいて二か所ある。
 おそらく日本全国の、郡町村の境界近くには似たようなゴミの山があるのであろうが、そんな風景を見るたびに人間の生活の次元の低さを思ってにやりとさせられるのである。
 例えば伊達と相馬の境界にすれば、たぶん伊達郡内と相馬郡内のゴミの山は伊達郡側のゴミの山は相馬郡内から来て車で投棄し、相馬郡内のゴミの山は伊達郡内から来て投機したものではないかと容易に想像される。
 人間の勝手なエゴを絵に描いたような図である。
 郡が番えば共同体の外である。感覚的にも躊躇なく兵器でゴミを捨てやすい。
 しかし、同じ郡内の町村の境界にはあまりゴミを棄てたりはしない。あくまで共同体意識が残っているためなのだろう。棄てるにしても気兼ねが残るし、咎める心理が働くのだろう。
 こうした図は自然のうちに出着ているので、社会心理学か、あるいは動物心理学の対象かも知れない。よもや行政の範疇には入らないだろう。
 しかし、これに酷似した図を別な場所で見ると、山の中のゴミほどに黙視している訳にはいかなくなる。
 原発と火発の立地が、これらの境界上のゴミの集積条件に酷似しているのである。例えば双葉郡浪江町と相馬郡小高町との境界の浪江小高原発予定地。例えば原町市と鹿島町との境界地の火発予定地。土地買収の段階でトラブルが長引き、建設着工が遅れているのは決まってこうした、たいてい二つの町二またがっている。
 同じ条件を抽出してみると、つまり行政責任者がもっとも責任を薄く感じている行政区の辺境地であって(なかば以上責任逃れが可能と考えて居る)、しかも権益だけは自分の量地内として確保しうる場所という条件である。
 金は欲しい、ごみは御免だ、という露骨な地域のエゴを絵にかくと、原発火発の立地条件になる。

リスクを背負った浜通り地方
 さて長々とゴミ捨て場のたとえを書いて来たが、地域社会がリスクの高い国家プロジェクトを受けいれた時に、住民の意識はどのようであったか、というのが本稿の主眼である。福島県の浜通りに出現した世界一のエネルギーステーションの出生は、じつはそれほど嫌われて生まれたものではない。
 大熊町に原発がやってきた時は、住民の作詞作曲による「原発音頭」で迎えられた。
 その理由は貧しさにあった。何の特産物もなく、農産物収入だけに頼って暮らしてきた住民んじとって、出稼ぎをせずに木本で建設土木労務者として現金収入が可能であったし、危険とはいえ放射能は目に見えない。
 原発は今だって疎まれるとこのない幸福な客である。これほどお宮ふぇをもってきたお客は、浜通りの有史以来かつて無かった。
 住民は杉並区のゴミ捨て場だって引き受けたであろう。
 それほどふところの深い愛国的住民なのである。しかるに、問題なのは、その住民代表たるべき国会議員のセンセイたちが、高いリスクに見合うだけのインフラストラクチャーの整備など、てんでしてこなかったという点である。芸がないというか無責任というか、まったく住民代表としての資格がないというしかない。
 全国で嫌がられる原発を、ここ浜通り地方に作った見返りになら、このうえどんな宝をねだってももってこれるというほどのリスクを地域内に抱え込みながら、彼らは何もしてこなかったのである。たった一本の道路さえもって来れなかった。
 政治家の仕事とは何なのか。刺し違えてでも住民の福祉に関わるサムシングをもってくるべきなのだ。
 彼等はそれをしていない。政治家でありながら「取引」をしなかったのである。
 そうなのだ。福島県浜通り地方の人間は、驚くべきことだが取引をしない人種なのである。政治的センスを持たない生き物なのである。

政治オンチが生んだ「火葬場」建設騒動
大人になれない相双地区の住民たち

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