相馬と双葉のなりたち論

 テレビタレントのテリー伊藤が、スタジオで「天皇は御自分の命をかけて(放射能の危険な)被災地の相馬に入られた」と、スタジオで叫んでいるのを見た。
 ははん。この仁は、相馬と南相馬の区別がついていないのだな、と思った。
 東京に住んでいてテレビしか見ていないおおかたの諸君は同様だろう。
 玉を後生大事に抱える宮内庁が、放射能の降り注ぐ地帯に天皇をやるわけがあるまい。相馬市と南相馬市とでは、福島第一原発の事故を起こした原子炉から、北へ隔てる距離が全く違う。
 相馬市は北へ50kmあり安全圏、南相馬市は20km~40km。このたびの核惨事で決定的な線引きがなされた屋内退避勧告区域20kmおよび強制退避命令の出た30kmラインの呪いの同心円は、南相馬市を均等の鹿島区、原町区、小高区の3層に輪切りにした。
 平成18 年に、無理やり合併したばかりで5年しかたっていない時点で、あの大惨事が襲ってきたのである。
 福島県浜通り地方の南部を占めるいわき市以北の相双地方と呼ばれる区域を差し引いた区域が、わたしたちの故郷である。県が「相馬」「双葉」と呼ぶところの会津、県北、県中、県南、いわきと並ぶ県内7つのブロックのうちの2つだ。
 旧相馬藩の版図に含まれる相馬市、南相馬市、飯舘村の相馬地方と、以南の双葉町の各町村を各個の特徴を記して原発立地町村を外観する必要がある。
 かつて自然発生的に地域を統括した権力(power)は、楢葉氏と標葉氏という2つの士族がそれぞれ楢葉地方(概ね現在の広野町・楢葉町・富岡・川内などでほぼ磐城領)と標葉地方(概ね現在の大熊町・葛尾村・浪江町・双葉町などでほぼ相馬藩領)を支配していた。
旧・標葉郡 – 浪江村・熊町村・大野村・新山村・長塚村・請戸村・幾世橋村・大堀村・苅野村・津島村・葛尾村
旧・楢葉郡 – 富岡村・久之浜村・大久村・広野村・木戸村・竜田村・上岡村・川内村
 楢葉は磐城氏に滅ぼされ、磐城の重臣猪狩氏が楢葉城にはいり支配したため、いまでも猪狩という姓が極端に多い。標葉氏は相馬氏に滅ぼされたため、大熊以北が相馬に属した。
 作家の岡映里は3.11のあとすぐに双葉に入って原発事故後の双葉人の何人かのこころの襞を描いてみせたが、「葛尾は電波を出さない区域ですね」という印象を語っていた。わたしもそう思う。被支配の故だろう。
 標葉六騎七人衆という言葉がある。
・六騎とは
 井戸川、山田、小丸、熊、下浦、上野氏
・七人衆とは
 室原、郡山、樋渡、苅宿、熊川、牛渡、上浦氏で、こんにちまで地名として残されている。
 双葉郡という行政区域が誕生したのは明治以後の事で、楢葉と標葉の2つの士族以来の地域を人工的に線引きしてふたつの葉で象徴される古くからの地域を「双葉」という新たな造語で無理やり結び付けた行政ゆらいの新造語なのだ。近代の太政官の発想であった。
 さらに、昭和になって新山村と長塚村とが合併させられるにあたって、新しい町名を必要とした時に、まだどこでも採用していなかった「双葉町」という、郡と同じ町名に冠したので紛らわしくなった。古くから住んで居た古老たちには、なじみの良くない新造語の双葉よりも、古くから慣れ親しんだ「新山」「長塚」のほうが、ぴったりくる。
 この気分は、鹿島、原町、小高の3自治体が合併した新「南相馬市」の住民のこなれぬ気分によく似ている。
 どこも自主的に合併を臨んだ名称ではなかったからだ。お仕着せの行政改革という太政官ゆらいの発想ゆえに、歴史性を無視し東京の机上の人口と綿製の数字の組み合わせによる「効率」が目的だった。3.11以後の原発事故で同心円で区切ってしまったことも、現場主義でない支配のいい例だ。
 そのたびに、地名が抹殺され、歴史と名残と愛着が削ぎ落とされて、地域個性が喪失されてきた近代史がある。その集大成が、原発事故による、故郷喪失という地域の死だった。

 相馬郡の北辺を成す新地町は、もともと宮城県側の仙台藩の気風と言葉で成り立つ。相馬藩の引力との緩衝地域であった新地は、双方の領地として行ったり来たりの運命を辿って明治になって現在の位置に落ち着いた。
 市にならなかった鹿島町と小高町と山中の飯舘村とが、ばらばらに飛び地でありながら、新地と組み合わされて「相馬郡」として平成の御代まで残った。
 かつて旧相馬郡中村町が、相馬市と改名した時に、かつて相馬藩領全域の首府だったという誇らしさが、比較的少数の相馬市が、「双葉」命名と同じように大相馬郡全体の名称である「相馬」を1自治体に冠したのと似ている。
 なじみある古くて懐かしい呼名に対する執着や、おのれが中心地としての自負と自尊心、はては他より高尚と思い込む嫉妬の感情などに、複雑な思いが込められt来た。
 たとえば相馬市に所在する「相馬高校」は、原町区に所在する「原町高校」よりも、格が上だという刷り込みもそうだ。もともと旧制中学から新制高校になった伝統ある相馬高校は、ずっと見下してきた。比較的に若い「原町高校」は、もとは「相馬商業学校」という格下の実業学校だったから仕方がない。内実はともあれ、気分というものは、どこまでも肉体的に付いて回るのだ。

津島五山
  五山とは、五つの山に鷹を飼育して献上したことから始まる。
 「鷹に助けられた主君が御礼のため(詞)鷲之明神を建立している」また、大正13年10月16日津島村の村紋制定が村議会に提出され、議決されたもので、村紋は「五山鷹の羽」氏家績氏によって図案化されたものです。 津島村は、古くから主君に対し「津島松、ひのき、けやき、馬、鷹」など、常に育林、飼育に努め献上していました。
※東日本大震災に伴う原発事故の影響により、国の浪江町内への立入りは制限されていたが2017年4月から避難指示が解除された。

「福島原発の町と村」p185
 福島県の佐藤雄平知事も例外ではない。先代の佐藤栄佐久知事(ムラの住民票を奪われる)を除けば、代々の知事が原子力ムラに住所はあるようだ。これらの知事らは加害者の弁が聞かれるはずなのだが、何のことはない。被害者面をしてメデイアに登場し、同罪の東電に怒りをぶちまけている。被害者は福島県民であり貴公は加害者のひとりだろうに。
第四章 自治体とPPS 「福島原発の町と村」布施哲也 七つ森書店

「日刊ゲンダイ」の書評欄で『福島原発の町と村』が紹介された。これを引用して自社サイトに上げている。
 「日刊ゲンダイ」書評欄で、布施哲也著『福島原発の町と村』が紹介された。
 「◆巨額の“原発交付金”がゆがめた自治体の実態◆
 原発災害が長期化するにつれて地元の自治体では微妙な分裂が起こっているといわれる。原発立地の現場では、長年巨額の助成金や交付金でうるおった歴史があり、それを知る他の自治体では被災地やそこからの避難民に対して密かに冷たい視線が浴びせられているというのだ。
 狭山事件裁判や障害者の教育権問題などで社会運動にたずさわり、昨年まで清瀬市の市議をつとめてきた著者は、震災前から何度も福島第一原発の地元を訪問、反原発の立場から国家行政に対する抵抗の拠点を築こうとしてきた。
 実は福島県浜通りの双葉町長は震災後も首相官邸を訪れて計画中の原発増設を訴えたという。事故を起こしたのは1号機から4号機がある隣の大熊町で、双葉町の5、6号機は無傷。しかも巨額の交付金で味をしめてきた双葉町はハコモノ建設に走り過ぎて財政破綻寸前に陥っており、7、8号機の増設計画は死守したいのだ。
 そんな地元のゆがんだ体質に鋭くメスを入れながら、著者は東電への不買運動を呼びかける。愚直な思いにつらぬかれた本。」
 
 たしかに原発マネーはこの地域を覚せい剤のように異常体質に変質させ、憂鬱なゆがみであった。
 宍戸俊則という伊達の公立学校理科教師は、「憂鬱亭日乗」というネットサイト上のブログで、311以来の原発事故以後の放射線量を中心に、特に教育現場での、子供たちへの配慮のなきやりきれない現状に対するうっくつが毎日のようにつづられていた。
 宍戸は北海道に家族を避難させ、追いかけてみずからも公立学校を辞職して移住していった。311以後の福島県でほとんど貴重な唯一の放射線に関する情報源だった。彼が遠く北へ移住してしまって、どれほど心細かったことだろう。

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