金房村の開拓
 次いで、金房村の開拓についてみることにしよう。周知のように、戦後のGHQの指令の下で農地改革が行われ、日本政府により地主の農地が買い上げられて、小作人に安く売渡された。また引揚者や復員者のために失業者が急上昇したことから、政府によって地主の山林も安値で買いあげられ、失業者に開拓させるという方針がとられることになった。
 金房村の開拓の概略についてであるが、1045年10月に達摩原(大富)に、金房村や近村在住の引揚者、復員者、土地不足の小作人などが集まって開拓を始めた。開拓協同組合がつくられ、組合長には平田が選ばれた。飯崎、金谷、川房、羽倉にも組合ができ、金房開拓団は150戸を数えた。しかし当初は雑木林を所有する地主から、なかなか開拓の承諾が得られなかった。46年11月に自作農特別措置法が成立し、未開墾の土地の買収の方法が決定され、47年6月には国や県の調査に基づいて、金房村の260戸(約260ヘクタール)の買収が決定された。しかし地主はこれに強く反対し、開拓者との間で深刻な対立に陥り、県当局なども加わって、和解に向けての話し合いが数多く行われた。そして48年になってようやく和解が成立した。注68
 平田は開拓農民から助力を乞われると、先頭に立って地主と対決した。平田がどれほどそれにエネルギーを費やしたかは、次のような当時の雑誌記事の一節からでも想像がつくだろう。「複雑な地主的反抗が執念深くくりかえされ、発展が阻まれてゐる」中で、開拓を「ここまで引っぱってきたのは、団長平田良衛氏(兼県農地委員、開拓委員)外の、並々ならぬ努力のたまものである。」(注69)
 もっとも平田は、地主との係争が解決した翌年と翌翌年に、衆議院選挙や福島県知事選挙に立候補していることからも明らかなように、まだ自ら開拓を行うという決意をしていたわけではなかった。平田が金房村達摩の開拓地に居を移して開拓農民になるのは、「50年問題」が起こった後の1952年3月のことである。

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