二宮尊徳の思想の換骨奪胎
 しかし、平田の教理の金房村では、農民が「加速度的に彼等の貧窮化を深めていたもの、革命に立ちあがるどころか、実際にはそれとは正反対のベクトルを志向する報徳運動に取り込まれていた。平田はその状況を次のように書き記している。

 二宮尊徳とその高弟達によって築かれ残された報徳運動は、最近農村に於て益々勢力を獲得しつつある。私の郷里相馬も高弟、富田高慶、斉藤高行を出し、又かつて報徳仕法を実施して、成功したところであるだけ(中略)、それだけ最近も処々で報徳仕法に則って村是をr立てて農村の自活更生運動を進めつつある。注52
 
 ここで、報徳運動の祖であ尊徳の思想に対する平田の認識について触れておこう。報徳運動の指導者らは、尊徳が「封建社会に於いて止むを得ず説いた天命、天性、中庸の道、倫理道徳、(筆者注=農民の支配階級に対する)妥協をのみそのまま今日の農民労働者にまで説」いている。平田は、指導者らが「意識的に尊徳を利用して、彼等の地主敵資本家的立場を合理化しようといふ醜悪なる利己的なる計算から出発してゐる」として批判する。
 平田によれば、幕末の封建社会においては、農民の「組織力に依って一気に「支配階級たる封建諸侯武士階級を覆滅するなどといふことは望めない」が故に、支配階級に対する「妥協」を良しとしたに過ぎなかった。尊徳の目的はあくまでも「農民を救ふことに在つか」。そこで尊徳は「農民に生れた者はそれが天命である」としつつも、「支配階級の諸侯の経済を峻烈に批判し、彼等の収斂、彼等の搾取によっては決して農民が農民の天命に従って生活を維持しえない」と主張していた。一方「こんにちは妥協しなくとも農民は立てる時代である。彼の同盟者も指導者もある。相当訓練も経て来てゐる農民の組織もある」。それ故に平田によれば、今日尊徳から学ぶべきことは「妥協」ではなく、「階級関係、身分関係があれ程厳格な封建時代に在って如何に彼は痛烈に諸侯の経済生活を富豪を彼独特の方法で批判したかの彼の態度である」注53
 このように平田は「生きた農民」とともに尊徳を再発見して、尊徳の思想を換骨奪胎しようとしていた。そして今後の思想のあり方、換言すれば「問題のとり上げ方、考へ方」について以下のように提起している。

 これは現に農民が最も熱心に話してゐる話、関心を有して現に考へてゐる問題をとり上げ、心持にぴたりと納得の行く様に、協力的に考へなければならないだらう。頭からダメにして一人合点してゐたのでは農民に解りっこがない。

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