「然し」「然し」と連続して繰り返されるこの接続詞によって、香戸少尉と陽子の双方の心の揺れ動くさまが、見事に描かれている。
 陽子は思う。「早く何とか気のきいた返事をしなければ、然しどんな言葉も浮かんでは来なかった。いやだわ、まるで小娘みたいにみっともない。然しやはり陽子はうつ伏したままでいた。
 「香戸少尉は、そのうつ伏せになった陽子の髪の毛を見ていた。髪の毛が、馬鹿にばさばさ広がって、何かけだもののたてがみのような連想をした。そしてその言葉を言ってしまったことで、捨てばちな大胆さを獲得したことを知った。」
 香戸少尉の気持ちにはエゴイズムがある。すなわち、心の底からの言葉として香戸少尉が陽子を「好き」だと言ったなら、とりかえしのないところへ追い込まれることはあるまい。香戸少尉は、まずその自分の言葉と不安定な気持ちとエゴイズムとにやりきれなさを感じ、陽子に対してもやりきれなさを感じている。陽子がとり乱して伏せているその髪の毛をながめて、「何かけだもののたてがみのような連想を」する。
 そして、その言葉を吐いてしまったことから「捨て鉢な大胆さを獲得したことを知」る。裏返せばすべて香戸少尉のエゴイズムなのだが、そのエゴイズムをながめて冷静に自分を卑下している島尾はおそろしい。
 香戸少尉は言う。
 「然し、今僕はこんな立場で、積極的にあたなをどうすることもできない。どうせ生命はあるはずがないのです」
 戦時下の、海兵団のある、どこか本土の海軍の鎮守府の近くの小都市が舞台なのであろう。ありふれた青年将校と町の娘の出合いなのだ。それと似たような話は、当時の日本には数限りなくあったに違いなく思われる。同じ戦時下という条件を古代であれ現代であれ、あてはめてみよ。その条件の暗箱に放りこまれた若い青年将校と町の娘は、どのような反応を示すのか。
 ここに描かれるのは図式である。その図式の下で動かされる絶望的な青春。それがやりきれない。
 「すると陽子は少し嗚咽のようなうめきをもらした。、香戸少尉は陽子の方に手を触れた。セーターを通してなまあたたかい体温が伝わって来ると、彼女をもう三十も過ぎた人妻のように成熟しきった女体のように錯覚して、それは香戸少尉にやりきれない感じを抱かせた。」
 ここで香戸少尉の感じている「やりきれなさ」というのは、形而上学的なものである。すなわち醒めた精神によってながめられている自分の中の心の傾向である。事故をピンセットでつまみあげているような仕業がここにある。
 私が島尾の文学を読む時に考える、島尾の最大の特徴の一つは、この形而上学的な「やりきれなさ」である。そして島尾の文学方法を印象的に言うならば、それは「自己の内部傾向をピンセットでつまみあげてみせる」ような、そのやり方である。
 

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