「もう取返しがつかない過失の中にいるような気がする。」
 その揺れ動く心の姿が、なんとも美しい軌跡をひきながら、読む者の胸をかきむしる。島尾は自分の傷をえぐってみせながら、まるで読むものにも同じ傷を持つことを要求しているかと思われるほどだ。
 ここで言う「過失」とは、本来の過失の意味を持ってはいない、むしろこの文節は「取りかえしがつかない」というか所に力点があろう。島尾にとって「過失」とは、「過失的な気分」という意味であり、「躊躇」とか「あせり」とか「うしろめたさ」とかに置き換えることのできる島尾特有の情緒であろう。
 彼は「もう取りかえしがつかない過失の中に居るような気がする」と、自分の気分を述べているにすぎない。むしろここでは「取りかえしがつかない」一回きりの人生を、このような生き方でしか生きられなかったという深い感慨をこめたものととるべきであり、別な人生の選び方がもっとたくさんあったのに間違った人生の選び方をしてしまったのではないか、というかすかな疑問(これでよかったのだろうか)という気持ちを置いたからこそ、次の一行おいてのケサナの言葉は、主人公の動揺の隙間を突いて強烈なのだ。
 (「あなたなつかしいでしょ」)
 ああ! ケサナはためらうことも疑うこともなく過去の日々をなつかしがっている。その単純ななつかしさは、複雑に揺れ動いている夫の心のありようと比べて、なんと純真すぎて疑いのないものであることか。
 「ケサナにそう言われて、私は思わず自分をかえり見た。小さな自分の影がそこでよろけたと思えた。」
 不意打ちのような妻ケサナの、疑いのない単純な肯定的な言葉は、「過失」という言葉で表現される夫の「うしろめたさ」の気持をぐらつかせる。
 「こんなふうにではない。もっとしっかりと確かめて、N浦に下って行かなければ。」と、島尾はまだためらったままだ。島尾だって、なつかしさはひとしおなのに、彼はそのなつかしさをひたすら抑えようとしている。何をためらっているのだ島尾、心の抑制をのけて走りよれ、と島尾自身の内部の声がしているのは、とっくに読者には分かっているのである。
 この辺について奧野健男氏は「出孤島記」解説で次のように説明している。
 「作者は感傷に流されまいと抑えに抑え、ことさら異和や怖れのみ強調しているが、ぼくはその作者にいらだたしさをおぼえる。事実筆はなつかしさと感動にふるえているのに、島尾は不機嫌に終始しようとする。こういうところが、島尾のゆかしさであるが、ぼくはひとつの欠点でもあるように思える。何を作者はおそれているのであろうか。妻に教えられた若者たちは集まり、元部落長や古家の夫妻は涙を流しなつかしがり、追いかけて来ているのに、作者は現部落長の冷めたさや自分の過去や妻の発作にばかりおびえている。こういう時おおらかにのびやかに大団円を書けないのが島尾文学の厳しさであり宿命であり、いらだたしさであるのだ。」
 「ゆかしさ」という言葉は。なるほどと思わせる。しかしまた、感傷に流されまいという抑えの下に、歴然と流れている感傷はそれ故に美しく、そして緊張しているのもまた実際なのだ。
 奧野氏は「いらだたしさ」と言うが、逆から見れば島尾のストイックな魅力がそこにあり、作品は結果的に内容をずっとひきしめている形になっていると言える。
 たしかに十年後の島尾は、単純になつかしがることのできる立場にある。しかし、そのうえでもなお「もっとしっかり確かめて」と慎重になっている島尾であるからこそ、島尾が島尾である所以がそこにあるのだ。
 十年前の島尾には「生活がなかった。」しかし、十年後の島尾にはその後の十年間の生活がある。
 「やがて、後年に、奄美の少女との結婚が二重の意味での戦争体験の選択であえることを宿命的に知ることになる。かれの戦争小説が、かれの戦後の結婚生活の成熟にともなって、おなじモチーフにたいして成熟し、結婚生活の波動にともなって波動する、といったぬきさしならぬ相互規定の関係をもているのはおそらくそのためである。」という吉本隆明の言葉は、より正確に島尾の十年後を説明するであろう。

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