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 かけひきと言ってもよいかも知れない。男と女の心のかけひきである。香戸少尉は離れがてに後ずさりして闇の中に消えてゆく。その躊躇の姿を眼の底に残して陽子は思う、「あの人はああして行ってしまうのだわ。」この辺のメロドラマ的な展開は、島尾の「やりきれなさ」「うしろめたさ」の深みをのぞかせるためにはかえって効果的だ。
 特別攻撃隊の隊長であった島尾敏雄にとって、特攻出撃にからんだ体験的戦争小説群のうちで、海兵団の青年将校と女教師との、行きずりの出合いを描いた「ロング・ロング・アゴウ」のような作品は珍しい。
 状況としては、死を目前にした基地での毎日といった切迫したものではないけれども、その未来につながる希望のなさ、という点ではやはり同様である。むしろ逆から言えば、死を目前にした強い緊迫感によってひきしめられている基地での生活に比べて、前線へ駆り出されようとしている海兵団の青年将校という立場は、かえって不安と悲惨の含みが大きいかも知れない。
 戦時下の重々しい空気のなかの青年将校と女教師のめぐり合いは、行きずりでなげやりな男女関係のようでありながら、互いに切迫した気持ちを抱きつつ、二人の上におおいかぶさっている状況はむしろ運命じみた出合いであるかのような貌にも見える。
 すなわち、香戸少尉は「このまま陽子と、平凡な、誰にも命令されないしかも自分も命令しなくてもいいような生活をしたい欲求に猛烈に襲われ」る。「すると陽子がかけ替えのない人に思われて来」る。
 彼の欲求は、抑圧されていた不可能な領域への反発であったかも知れない。戦時下という状況に封じ込められ、バネのエネルギーをかえって強く与えた圧力の反動のために、眠っている子を起こされたようなものであったかも知れない。
 最初の二人のあいびきから、しばらく香戸少尉は遠ざかったままだ。陽子は、あまり姿を見せない香戸を思い、毎日がせわしい。思いあまって陽子は香戸に手紙を書くことを考えつくが、香戸の名前も知らないことに気が付く。けれど陽子は、自分の手紙にいやみな調子がよどんでいるようでいや気がしながらも今にも香戸少尉が前線へ出動してしまうよな気がして、投函する。
 じっさい香戸少尉には出動が迫っていた。そのあわただしさのなかへ陽子の手紙が舞い込み、それどころではないと思いながらも、陽子に逢いたい気持ちにかられる。
 陽子は例の夜の香戸少尉のこまかい仕草を思い出している。指先でまさぐった桜の花びらの襟章を、もう一度感じ散るために、確かめたいという思いにこがれる。
 香戸少尉は香戸少尉で、陽子のはずみのあるやわらかな体温が、自分の手足の隅々に残っているようであり、それがぐっと香料のようによみがえってくる。
 つまり、不確かさをかみしめながらも香戸と陽子は互いを求めている。それだから、なにせその結びつきはぎこちなく、「むき出しの欲望」をかかえつつ、二人は再び会う。交わす言葉も少なく、出合いの時のかけひきのような緊張感はなく、共通の欲望の成就のための歩みよりの状況は、ことさらみじめなものとされる。そこには作家島尾の世界観があるようだ。欲望が状況によって罰せられねばならない、というふうな島尾ふうのシンメトリックな心の構図が見えるだ。
 手紙を貰った翌日、出撃を眼の前にして、突然香戸少尉は陽子の学校を訪れるが、学校の裏の丘の上に登り、畔をよって学校の上の崖の上の所に出て、細長い学校の屋根を見下ろしながら煙草を吸って待っていると、「ちょうどこの間の夜に別れた校舎と便所との渡し廊下の踏み板をハンカチで手をふきながらかたかた音をさせて渡ってきた陽子がひょいと崖の上を見上げた。そして腰を浮かせ、びっくりした表情で眼を丸くした。香戸少尉は不意を襲われた陽子の格好が滑稽に思われた。」
 だが、例えばこんなふうに、ことさら陽子にみじめな思いをさせるのは作家島尾の意図であるわけだ。読者には、何やら作者の体験回想のように思わせておきながら、実はこうみょうに仕組まれたストーリーの罠なのだ。島尾は、香戸と陽子に、みじめな状況をたたみかけてゆく。
 

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