フクシマ・ノート #8
浜通り開発の1世紀を追う
東北線と常磐線100年の軌跡
二上英朗
プロローグ
3.11震災の東北大津波で被災したJR常磐線の相馬と浜吉田の区間が2016年末までに再開通させる方針が正式に決定し、12月ダイヤ改正に合わせて営業運転が再開する見通しとなった。この区間では津波対策として新地と坂本・山下の3駅を内陸に移し、長さは約22.6キロから23.2キロに延びる。移設区間の約4割強は高架式になる。
これに先立ち、今春には原ノ町と小高も再開する。現在は原発事故後に強制的に退避命令が出された20キロ圏内への帰還者を戻す国策が具体的に目に見えてマスコミにあらわれ、これに付随するトピックが集中的に報道されている。
こうした状況は、まさに120年前に常磐線が開通された明治の国家デザインの実現期を追体験するもので、東北建設につくした先人の努力をしのぶ好機でもある。

一国の近代化は、たいてい軽工業とエネルギー産業が手をつなぐことから興る。日本工業倶楽部[会館](注1)の正面屋上には、小倉右一郎作の鉱夫と織女の彫像が飾られているが、これら一対の産業(石炭と紡績)こそが日本の近代化(工業化)をなぞる象徴なのだ。
すなわち石炭は近代化のエネルギーを提供し、織布は軽工業がもたらす最初の国家の富だからである。近代国家は、まさに鉱夫と織女の肩に支えられて誕生する。産業革命をなしとげた英国はじめ欧米諸国もインドなどのアジア諸国も、みな同じプロセスをたどって発展した。福島県の近代の歩みもまた、織女と鉱夫によって支えられていた。
東北本線も常磐線も国の大動脈の鉄道は、江戸から東京と名を変えた首都と織女(養蚕)・鉱夫(炭鉱)の働く地域、すなわち伊達福島の絹布と常磐いわきの炭田を結ぶものとして出発している。
『あさが来た』というNHKの朝の連続テレビ小説の主人公は広岡浅子という日本初の女性起業家だが、朝ドラで詳しく描かれたのは九州の炭鉱だ。広岡浅子は石炭に目をつけた慧眼の女性としてもてはやされている。安倍首相お気に入りの籾井NHK会長の指揮下で1億総活躍社会が謳われ、女性が輝く時代が称揚される。籾井会長の実家は籾井鉱業という戦後の炭鉱業であり、企画スタッフの深謀遠慮からのごますりだったとの説も頷ける。
そういえば低視聴率だった前年の大河ドラマ『花燃ゆ』では安倍首相の選挙区である山口県(旧長州藩)の思想家・吉田松陰の妹が無理やりの主役だった。黒煙を吐く蒸気機関で太平洋を渡ってきた西洋文明への驚きが、日本の近代への覚醒を促したというのが、司馬遼太郎信者の多い国会議員の好みのテーマだ。
だが、ちょっと待ってほしい。
「白河以北一山百文」とさげすまされてきたみちのく東北の片田舎、福島にも、黒船カルチャーショックによって時代の変革に目覚めた人材はいた。しかし、確実に変革の歯車になったことは地元の郷土史でも見逃されてきた。
1人は伊達信達地方の農民だった金原田八郎。横浜沖の米艦隊の黒船を目撃、すぐに帰郷して農民を組織、一揆という形で幕藩体制の理不尽な租税の苛斂誅求に対して生産者の当然の権利を訴えた。その結末、八丈島に流刑になったものの、近代への目覚めとしての鮮烈な精神的覚醒が、東北の片田舎の青年にも生まれた時代だった。
もう1人が常磐炭鉱の産みの親、片寄平蔵とという人物だ。この青年も品川沖の黒船を実見してより、蒸気機関の燃料が石炭という黒い石であると聞き、郷里の夏井川の河原の黒い石を想起した。もしやと調べた結果、案の定、それまで打ち捨てられていたのが「石炭」という宝の山であることを知り、採掘事業に取り掛かる。こうして、九州の炭鉱に匹敵する東北有数の常磐炭鉱の開発がスタートしたのである。(大ヒットした映画『フラガール』は、その常磐炭鉱廃業後の常磐興産がソフトラウンディングしたビジネスのサクセス・ストーリーでもある)。これを引き継いだ白井遠平が常磐炭田に鉄道を誘致して鉄道免許を取得した。
明治も維新も、薩摩長州土佐肥前の西軍系の論功行賞だけで論じるべき話ではない。幕末から明治にかけては日本全体が目覚めたのだ。
ペリー提督が将軍に献上した33の贈物の中のひとつに、4分の1模型の蒸気機関車があった。日本人が黒船も蒸気機関車模型も石炭という黒い石を燃やして動くという新しい原理に出会った最初である。まさに「あさが来た」時代だった。

東北鉄道開発時代を旅した幸田露伴
明治20年に東北本線が塩竈まで開通した時も、10年後の明治30年に常磐線(当時の磐城線)が福島県にやって来た時にも、その活気ある時代の空気を活字で伝えたのは幸田露伴という若き文士であった。
青年期の幸田露伴Wikipedia(注2)
露伴の名を聞くと、人はあの長いアゴヒゲの老人の写真を想い出し、書斎の奥の文豪像を連想するであろうが、彼の真骨頂はそんなイメージとは無縁のところにある。明治という年号に古臭いイメージを感ずるのは遠く昭和も戦後のことであって、歴史の上では現代よりよほど沸々たるエネルギーに満ちた激動の世の中であった。
活気ある明治にふさわしく、青年文士・幸田露伴は好奇心の塊のような人間であった。そして、近代が求めて生まれた「旅行ライター」の先駆けだった。今で言うなら、テレビ局の新進ディレクターの企画に乗せられてユーラシア大陸や南北アメリカをヒッチハイクした猿岩石やドロンズみたいな若手売り出し中の芸人のような、雑誌媒体を舞台にヒッピー旅行をやってのけた青年だったのである。古臭い名前や、教科書に載っている文豪然とした肖像写真に騙されてはいけない。
東北本線が全通しようという前夜の明治20年に、幸田露伴青年は若干20歳で延伸中の鉄道に乗り込んで旅行しているが、未開通区間のうち、福島郡山間を、じつは歩いている。
宿に泊まって休みたくとも、懐には郡山―東京間の切符代ぎりぎりの所持金しかなく、餅を買って空腹を凌ぎ、鉄路に沿って夜間を歩き通した。疲労困憊しつつ路傍にたたずんだ。ひどく空腹で寒かった。だが燃えるような情熱だけは旺盛で、文豪はこの「露を伴って路傍で寝た」という実体験を「露伴」という雅号にしたのであった。体験型の旅行作家としての記憶なのである。

御用技師の都合で開業が早まった東北本線
県都福島にステンション(ステイションを当時こう呼んだ停車場)なるものが設置されたのは明治20年12月15 日。この年の7月15日には黒磯―郡山間が開通していた。12月には仙台―郡山間が開通。予定より2日早く開通式が行われたのは、列車を運転してきた米人技師ウォルトン・ペイジが神戸の自宅でクリスマスを過ごすために開通式を急がせたからである。井上勝鉄道局長から日本鉄道会社に急な話があって、15日朝7時28分、6両編成の祝賀列車が上野を発車。だが前夜から宮城県南部と福島県北部に1メートルを超える降雪があり、越河(こすごう)の峠を越えられずに福島駅に引き返した。
当時の日本は私鉄の時代。東北本線は日本鉄道会社が経営していた。工部省の役人から社長となった小野義眞が免許を取得し、財界の指南役、岩崎小弥太が激励した。この鉄道コンビに井上勝を加えたトリオ、「小」「岩」「井」の頭文字は、岩手の「小岩井」農場として、友情の協同事業を歴史と地域に遺している。常磐鉄道は前述の白井遠平が奔走して免許を取得し、建設への筋道を付けたが、炭鉱開発に集中して日本鉄道に建設を委ねた。
10年後の明治30年、幸田露伴は常磐線の開通直前にまたしても未開通区間を踏破している。雑誌『太陽』の編集者大橋乙羽という人物が同行した。「うつしゑ日記」という雑誌連載記事にこの時の紀行は克明に記録された。

露伴が見た「ゾーン」の原風景
明治30年秋、幸田露伴は東京の自宅を出発し、常磐線で久ノ浜駅まで行き、そこから人力車で、小高町、原町まで行く。久ノ浜―中村駅間は未開通だった。ちょうど、現在の不通区間がすっぽり入っている。120年前の状況と原発事故後の現在の状況が偶然重なり、ダーク・ツーリズムの現場であると共に、幸田露伴の足跡をたどるいいコースになっている。
当時、小高町には半谷清寿という青年実業家がいて、地元では政友会の勢力に対抗し、農本的な地主たちとは別流の政治理念を主張する新興言論人として名を売りだしていた。幸田露伴は半谷を訪問したかったらしいが不在だったため、小高を通過して原町に夜中に到着し、1泊した。時に露伴30才で、すでに名作「五重塔」が発表されており、尾崎紅葉と並んで明治文壇の売れっ子となり「紅露」とも併称されていた。
「明治三十年十月七日朝早く寺島の家を出でて上野の停車場へと心ざし、車を急がす」と書き出しているが、車というのは人力車のこと。当時開通したばかりの常磐線に乗り、その沿線を紀行に記している。上野駅を「六時二十五分といふに車は動き始め」「為すことも無き車室の中に」同行の乙羽(雑誌『太陽』編集者)と酒を酌み交わしながら北上する。
「百里の路に杖笠の備へもせず、煙管のけぶりゆるく立てつつ、樹の間、藪蔭、田圃の中を、見る眼忙しきまで疾く走る身の安らかに座して行くこと、今さら云はんもおろかながら汽車といふものの恩恵なり」と鉄道の旅の快適さについて言及する。
「うつしゑ日記」と、これに続く「遊行日記」は、明治30年10月7日から24日に至る旅の記録で、前者は雑誌『太陽』の同年11月・12月号に、後者は32年3月・4月・7月号に載った。また、「うつしゑ日記」は雑誌文芸倶楽部『旅之友』に再録された(『幸田露伴全集』第14巻後記)。
見事に当時の汽車の旅を活写している。百年前の鉄道も原発もなかったゾーンの(ありきたりの日本の田舎の)原風景である。つまり、3.11は一瞬にしてゾーンを明治以前に巻き戻したのである。タイムスリップと言ってよい。興味深くない訳がない。

鉄道がつなぐ「事故以前」の記憶
1月12日の報道によると政府は、福島第一原発事故を受けた県内の避難指示について、平成28年度中には帰還困難区域を除いてすべて解除する方針で、商業施設や医療機関の整備など、住民が帰還できる環境づくりへの支援を加速させることにしたという。常磐線の2年後開通というスケジュールも同じ方針によるものだ。
地元の南相馬市は平成の大合併で合流した鹿島町、原町市、小高町の旧2町1市の区域だが、原発から20キロメートル圏内で避難命令が出た小高区を対象に、帰還者支援事業を民間から募集している。
そこで私は、有志と語り合って「ふっこうステーション」という常磐線の開通を見込んだグループを昨年末に立ち上げた。都市計画を専攻する栃木県在住の岡田雅代女史という南相馬リピーターが事務局を担当し、わたしは郷土史を解説して次のような要綱を練り上げた。そのシノプシスはこうだ。

南相馬市小高区出身の半谷清寿(注3)が常磐線の誘致に大きく貢献し、明治31年(1898年)に南相馬市内の常磐線(旧磐城線)各駅、小高・磐城太田(旧高駅)・原ノ町・鹿島駅が開業した。このことにより、近世までに形成された南相馬市域の町や農村地域に大きな変化がもたらされた。桜や菜の花などが咲く平成28年(2016年)の春は、これらの駅の開業118年目にあたる。
常磐線を走る列車は開通当初の蒸気機関車から時代を経て電化になり優等列車も登場した。これにより、暮らしに変化を与えると共に、車窓や列車が走る風景を通じ、沿線住人や常磐線を使った人々に沢山の思い出を残したことだろう。
しかし、平成23年(2011年)3月の東日本大震災以降、福島第一原子力発電所から20キロメートル圏内の常磐線 原ノ町~桃内駅は不通になり、改めて常磐線の価値を再認識することになった。そうしたなか、平成28年(2016年)4月には常磐線 原ノ町駅―小高駅区間、平成29年(2017年)春には、小高駅―桃内駅―浪江駅の開通が予定されている。
そこで、20キロメートル圏内の帰還者支援に向け、常磐線を誘致した当初の想いや、駅を中心とした常磐線にまつわる地域の歴史(産業・町の成り立ち・暮らし・文化・人物 等)や鉄道と関連施設の歴史を振り返り、常磐線の思い出や鉄道遺産(鉄道関連の近代化遺産、震災の記憶を未来に伝える震災遺構)への想いを楽しく語りあう場の提供を行い、より多くの人に参加を呼びかけコミュニティの再生を図ることを目的とする。

国は原発事故の汚染で人がいなくなった双葉地方のど真ん中の楢葉町に「ふたば未来高校」という高校を創造して、芸能人や有名人、宇宙飛行士まで講師に送り込み開校した。すべてが拙速に「住民を戻す」という原発安全神話に根ざした施策である。学校も医療も産業復興支援も、すべてが泥縄方式で突貫工事である。その歪みが、新たな社会問題を引き起こす。
政府がやると言えば地域も従わざるをえない。住民に寄り添うにしても、個人ができることは限られているが、先人の苦難と努力について学ぶため、すこしは役に立ちたいと思う。
幸田露伴が会おうとしていた半谷清寿は、鉄道開通に便乗して不当に安い地代で農地を買い取ろうとする日本鉄道会社ブローカーとわたりあって農民の代理人として適正価格を主張した。そのあげく、暴漢に襲われ、讒訴により逮捕拘束され福島刑務所で片眼を失明する悲運にもみまわれたが、のちには堂々たる代議士になって「明治神宮東北遷都論」や「東北減租論」を発表し、『将来之東北』という著書で明治維新後の東北が進むべきビジョンを世に問うほどの、鄙には稀なる思想家になる。壮年にして富岡町に移住して夜ノ森駅を誘致し、新しい土地に理想の町を作り上げ、見事な桜並木トンネルを整備した。それから100年、原発事故が起こるまでは観光客の絶えない場所だった。こここそが東京電力福島第一原発の地元の町なのだ。最初に着眼し丹精して育て上げた地元の偉人の名前が忘れられて、原発被害だけが語られるべきではないではないか。
311後の夜の森桜並木は立ち入り禁止

注1) 日本工業倶楽部会館 http://www.kogyoclub.or.jp/building.html
注2) 幸田露伴画像
http://www1.hokkaido-jin.jp/zukan/picturebook/itemview.php?iid=2000100002
注3) 半谷清寿 うつくしま電子事典
http://www.gimu.fks.ed.jp/shidou/jiten/cgi-bin/jnbt.cgi?id=view&cd1=%C9%D9%B2%AC%C4%AE&cd2=%C8%BE%C3%AB%C0%B6%BC%F7

(初出:『ゲンロン観光通信 #9』2016年2月12日号)

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