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小林盛長自叙伝 南米大陸に夢託す 上

小林盛長 自叙伝

南米大陸に夢託す

 第一章 幼児期の貧窮

 私は昭和十一年(一九三六年)三月二十二日、父畿博・母ヨシイ、農家の四男として、現在地福島県原町市小浜内に生まれた。
 男六人女四人の十人兄妹。上に兄三人姉二人がおり、六番目であった。
 私は小学三年(九才)、昭和二十年頃の家族構成は、祖父母・両親・兄弟(長男幼時死す)の十三人家族であった。
 それに東京から疎開して来たおば半谷キクエ夫婦、子供三人の五人増えて、十八人の大家族となった。食事時の号令などしなくとも、食器の物音で集合した。
 現代のような、子供に何が好きかなど食物の心配は無用であった。
 〈兎角、早い者勝ち。お膳に座って、むしゃくしゃに食べるのみ〉
 私はだれよりも暢気のため、母がいつも心配していた様子であった。
 食べ物の記憶で忘れることのできないことに、隣の牛来先生宅から、当時ものすごく高級な果物、バナナ二本を母が戴いて来て、私達に一本のバナナを五等分に分けてくれたので、皮まで食べたのが生まれて最初で最後であった。本当においしかった。当時学校の教科書は、先輩から譲り受けまた後輩に譲る順回しであった。これ以上に常用品の不足、勉強どころではなかった…。
 衣類などもツギたしツギたしのモンペ姿で通学した。世間一般の生活であったが、「子供心でもこんな生活はいやであった。」
 ある日、先輩に誘われて、自分の家から約四キロ離れた磐城太田駅から原町駅往復、約十四キロ線路沿いに歩き、アメリカ兵(進駐軍)が我々のために落とした缶詰拾い、週末の日課のように五~六個拾う。学級内にも私と同様貧しい方もいたので、かんずめを分けてあげた。この気がけで大の仲良しとなった。
 

 第二章 外国に夢見る動機

 小学校四年、十才の時。社会学習の時間に木幡功先生(萱浜出身)に、各国の特産物と生活状況など教わる。特にブラジル国には沢山の日本人が移住して、コーヒー園を経営して成功している。
 世界最大の川、アマゾン川の上流では、金を含んでいる砂金が出るので発掘する労働者もいる。ブラジルの国は、日本国土面積の二十倍以上も大きな国土であると教わる。
 家に帰ってすぐ父に世界地図はないかと聞くと、そんな地図はないから西隣の牛来先生から借りて勉強しなさいと言われ、さっそく牛来先生を訪ねて、世界地図を二~三日借用して返すことにした。このことを知った母が、母の兄(秋元おじ)が浪江町方面で校長を務めているから借りてくるとのこと、十日後に母の生家浪江町藤橋地区に行き、秋元おじさん宅に寄り地図の話をしたなら詳しい世界地図を甥(盛長)にあげるから勉強しなさいと、大切にしていた世界地図を頂いて、母がニコニコして帰って来た。
 寝る時間も忘れ一晩中地図を見た時、世界の大きいのに驚いた。それにしても地図で見る日本は豆粒のように小さな島国だな…! 大きな外国に渡るぞ! こせこせしたわが国日本と外国を比較しながら、自分の目で視野を学びたいと胸が踊るが、一念千穫などとは思わなかった。

第三章 祖母サダばあちゃんの写真

 小学校五年の夏に家族の写真を三~四冊見せられた。祖父清と父親は金華山参り。奈良神社参り。日本カモシカ数頭と一緒にマントウ着た姿で撮っていた。すべて白黒写真。 アルバムの中に珍しい写真二枚目につく。客船をバックにサダばあちゃんが撮っていた。祖母に聞くと樺太(サハリン)に出稼ぎに行っていた祖母の妹がお産をするため、二ヶ月以上も見舞と家事手伝いに行った時の写真だよと説明された。
 その時強く感じたのは、女でさえ一人で壱萬t近い商船で外国に渡ったのだから、俺だって外国に行けると夢が膨らむ。 その日の夕方チャンスがあるようにと、母が見ているのも知らずに両手を合わせて神棚に向かって真剣にお願いしていたら、母から盛長、神棚に向かって何をお願いしていると聞かれ、びっくりしながらも私は学校で社会科が誰よりも遅れているので、これから頑張るので神様にも応援して下さいとお願いしていた所ですと答えた。
 母が笑いながら、明日から朝一番に神様と仏様のお水は盛長が当番と言われた時は幸わいと思いました。毎朝つるべで井戸水を汲み上げ、水を二ヶのコップに入れて、いつかは必ず渡米できるチャンスが来るように毎朝願っていた。 

 第四章 水産学校進学希望

 第一章で述べたように我が家の家族構成は十三人プラス五人の十八人のため貧しい毎日の生活であり、小遣いなどもらった記憶もない。私が望んでいる外国行きの費用などとんでもない状態であることも知っていたので、「お金がなくても外国に行けるのは船員になることだ」、それには水産学校に入学するのが先決であると思い、私が中学二年の時担任であった杉山金一先生(原町市橋本在住)に自分の考えを相談すると、私が苦手である英語を覚えること、水産学校に入るなら英語をしっかり勉強しなさいと助言される。
 杉山先生の性格が優しく理性的で生徒達から親しまれた。ニックネームも「かすべ」魚の一種。 かわいい顔つきのため、皆で可愛い仇名をつけました。中学三年(昭和二十六年)になって、英語を本気で始めるも、苦手は苦手で一向に前に進まなかった。いよいよ進学時期となり杉山先生に小名浜水産学校を受験したいとお話する。

 大みか学校から君一人だから頑張れと励まされた。そのかいあって、見事に合格する。よろこんで両親に合格の報告をすると、いきなり父から一言「バカヤロー水産学校は『ヨタモノ』が進学するところだ。ぜったいに入学はダメ」と言うより早く横ビンタが飛ぶ。
 痛いのも歯をかみしめて我慢したが、なんで合格して横ビンタをと思うと悔しくて涙が出た。
 父親は大正六年相農卒第十期のため、私にも相馬農高ならよいとのこと。父親の胸算用はこれから相農に受験申請しても間に合わないと思ったらしい。私に簡単に進学してもよいとのことであった。父の内心は進学しても学費に困るので進学させたくなかったのである。
 私は水産と相農に願書を提出し、両高受験していたので相農の発表を待っていた。私の受験番号二十二もあった。両親に合格の報告をすると、おめでとうとあっさり祝福して下さった。 私の誕生日三月二十二日にお餅をついて祝ってくれた。最近の新聞を見ると本人が進学希望しなくとも、世間体が悪いからと家族の者が本人を説得し進学させるため、登校拒否、やがて中退する現状…。
 世の中変わったものだ。
 それにしても私は進学する気分でいた。翌日の夜、父から「盛長よく聞け。小高町横丁にあるいさば屋(島尾魚店)に毎々から丁稚奉公にたのんでいたので、進学せず島尾魚店に行きなさい」とのこと。島尾さんは小高町では繁盛している店だ。島尾さんに仕込んでもらえば将来的に明るいからと、私を説得する。
 父親の顔を見ると私の方が涙がでそうであった。父親の切ない願いと、進学させるだけの余裕がなかった苦しみと、私の将来を考えたあげくと感じ反発もせず、怨みもせず、島尾さんの丁稚奉公に行きますと返事をする。せめて入学だけと思い、父にお願いして、制服は準備せずに一週間だけ通学し、友人の荒木信男君に事情を話して、学校に退学届けを提出する。つくづく貧乏はいやだなあーと惑じる。
 いつも外国に渡りたい夢を胸に刻み臨んでいた。
 

 第五章 魚屋の丁稚奉公

 小高町横丁、通称鳥居通り、島尾魚店に昭和二七年四月十六才で就職する。町内の魚屋では一、二番に繁盛ぶりで、働きがいもあった。市場は小高駅の近くにあった。毎朝親方が競った魚を運搬用の自転車(前輪のタイヤが大きく前方に荷物をつける)で運ぶ。慣れるまではふらふらして転倒したこともあった。
 最初は魚のうろこ落し。刃物研ぎ。二週間もすると、慣れると農家を回って魚の外販を始める。
 初めは一箱を自転車に積んで行くが、なかなか売れるものでない。三ヶ月後に二箱、六ヶ月後には三箱。農家の方々の情けもあって売れた。親方には二時までに売れない時は残してもよいから帰って来なさいと言われても、残すのは男の恥と思い一度も残してこなかった。
 しかし実家までかなりの距離があったが、売れ残りの魚を一度買ってもらった。母親はいつでも残った時には来なさいと言って下さったが、これでは自分のためにならないと思い、自力で売りつくした。
 朝食しただけで二時近くになると腹ぺこ、腹の虫が騒ぐので生魚をむしゃくしゃ食べて凌いだ日も数回あった。親方のすぐ隣に黒澤さん宅があり、イチウおばあさんは私を我が子同様に面倒を見てくれた。長男の光男さん兄弟には本当にお世話になりました。やがて結婚するなら、心の暖かい黒澤家の娘(和子)さん…。少し早い恋心かな? 就職してから九ヶ月目の年の瀬に親方から、魚一箱実家に届けなさいと言われ、運搬車で実家にとどけなさいと言われ、運搬車で実家にいくも私の手を見るなり「毎日朝から晩まで冷たい水のため両手がしもやけでドス黒くしもやけがひどいと驚かれた。
 雷親父も優しく、ガマ油を手にぬりつけ、これを朝晩ぬりつけなさいと小瓶を渡された時は、やより親は優しいんだと感じる。両親に正月は魚屋は忙しいから頑張れと励まされて、実家を離れながら後を振り返ると、落ちる涙をぬぐいながら見送っていた姿を見て、よーし頑張るぞと思った。

 第六章 冬道での転倒

 私は小柄で五尺一寸足らずの身であるので、普通の自転車なら運転も楽しいが、運搬用の自転車など少々無理…。おまけに三箱重ねた魚を積み運転するため、ふらふらして地についた感じすらせず、空に浮いた思いであった。
 それに三箱を前輪上方に積むため、前方がよく見えにくい。正月用の魚を積み、いつものコースを小高町より西方面に七-八キロ、大富部落に行く途中、寒冷えのため両手はグリン棒になり、ハンドルを握るのもやっとであった。
 十分に注意していたが、地面が凍ってアイスバーンのため、すってん転りん。小川に魚三箱ごと私も転がる。どぶネズミ同様。足は怪我する、魚は小川に散らばる。今想うと十数年前のことながらざわざわします。
 近くの門馬さん宅に駆け込むと、その姿ではダメだ、おじいさんが朝風呂が温かいので入りなさい、上着とズボンも少し大きいが着なさいと言われるままに、お借りして魚売りした事が一番想い出に残っています。
 心温めて下さった門馬さんのおかげで風邪もひかずにすみました。一生忘れません。少しだけどサンマとカレイを差し上げてお礼としました。門馬さん、本当にありがとうございました。
 当時は小さい天秤ハカリを使用して商売していた。親方は暗算、私はソロバンを使って計算をしていたが、どうしても親方の計算が早く負けていた。
 負けるのがいやで、何か早い方法がないかと考え、徹夜二週間後に答えができました。親方より早く正確に、私なりの考案で成功しました。試してみて下さい。

 自転車のことでふと思い浮かんだ。誰もが子供時代に錆れた自転車漕ぎで、ふらふらヨロヨロ転んでは起き、起きては転び・・の悪戦苦闘。その分乗れた時のうれしかったこと…。あの感動を今更に思いだしました。

 第七章 南米に行く人に出会う

 十二月中旬頃(昭和二十七年)魚の小売り手伝いに仲内芳衛(六尺以上の長身)さんが、島尾魚屋に来て手伝っていた。少し話す言葉のアクセントが違うと感じたので、本人にそれなりに聞いたところ、偶然も偶然、仲内さんの話によると、長年南米のブラジルに住んでいたが、事情により二年前日本に帰って来たが、やはりブラジルは住み良い国である、機会があれば再びブラジルに行きたいと話す。
 その時一瞬私は外国に行けるチャンスが来たと喜ぷと共に、ドキドキワクワクの気持ちで一杯であった。
 何かの本で読んだ覚えに〈夢は見るもの希望は果たすもの〉…。小学校四年の時、夢を見てから七年目で待望のチャンスが来た。希望が果たせる日がやっと来たと心強く打つも、反面父親に反対される心配もあった。
 翌月の一月中旬頃に私の気持ちを仲内さんに内訳したところ、私が仲内さんの家族に入って行くのが手続きも早く簡単のとのこと、「要するに私が仲内さんと養子縁組し、志賀姓から仲内姓になること」
 両親に反対されるのを十分に覚悟して、親方から一日休みをもらい、実家に行き正座をして「今日は! 一生の一大事のお願いで来ました!」と両親にブラジルに行く決意を話すなり、猛反対。
 父親から顔面に往復ビンタをうけ片目が見えなかった仕打ちに対し、怨みもせず、私の勝手ですみません、ブラジルに行くこと許してくださいと願う。
 父いわく、小浜部落から戦前に二家族ブラジルに渡っているが、数年間何の連絡もないとのことで、両親も心配するのもやむをえないと思えた。
 それに日本とは地球の裏で一番遠い国であるから反対する気持ちもわかります。この頃の私の気持ちはすでにプラジルに行っていたが、新天地での王道楽土などと一度も思ったことなどなかった。

 第八章 親族会議

 私の決意が固いので、昭和二十八年(一九五三年)二月。両親は親戚七人程集めて会議する。
 私がおじ、おばさんの前で、私の一生のお願いです、私の望んでいる外国体験を賛成して下さい、お願いします。と繰り返すも、六人は反対であった。
 秋元校長(おじ)のみ賛成してくれた。このままでは六対一で希望が果たせなくなると思い、無謀を承知で私を日本国内に置きたいなら、屋敷、水田、畑、山林、それぞれの面積の半分を私の名義にしてくれるなら渡米しません(内心は財産など一かけらも欲しくないが)と、この時ばかりは無茶苦茶な話をしました。それでも、この条件でも日本国内にいなさいと言われたなら困ると、私は胸がドキドキしていいた。
 すったもんだの末に、秋元おじさんから本人の意思は固いから、皆さん渡米することに賛成してやりましょうと言葉が発した時は、内心はやった! と思ってとびあがるほど嬉しかったが、周りのことを考えおさえていた。
 本当にうれしかった。
 一寸早まったが、私は必ず二十五才までに日本に帰って来ますと約束する。当時の地名は相馬郡大みか村であったので、村長の畑島好様にあいさつに行くように父から話されたので、役場に行くも出張中で留守であった。後日自宅に行き訳を話すと、大みか村から戦前数家族南米ブラジルに渡ったが、うわさ以上に苦労しながら働いている、それに熱帯のためマラリヤ病が流行しているらしいから、くれぐれも注意して、見聞を広めて下さいと激励された。その内村長の娘(洋子)さんが帰って来たので同級生の誼で話がはずんだ。

 第九章 出発準備

 両親から許しを受けたので、仲内さん宅に行き、ブラジルに一緒に連れて行って下さいとお願いに行った。
 「ブラジルに渡航する条件として一家族内に十五才以上~五十才以内に三人以上の働き手がないと許可されない」とのことで、ちょうど仲内さんも私が行くので都合が良かったそうである。
 先ほど申したように養子縁組し、仲内芳衛さんの弟になって行くのが手続きが簡単で早いと言われたので、二月下旬に養子縁組と渡航手続一切を仲内さんにお任せする。
 仲内さんの家族構成は、仲内夫婦、おばあちゃん、こども三人の六人で私を含めると七人家族となる。
 「一年後知ったのだが、実はブラジルでは開拓移民を奨励していた時期であったそうである」
 四月下旬頃、島尾親方に事情をお話して、五月下旬頃暇をもらう。十三ケ月間商人の心得と、お客様に品物を買って頂くありがたさを学び、よい経験をさせて頂きました。島尾魚店がいつまでも繁盛することを願っております。
 神戸港出帆は昭和二十八年六月二十五日と伝えられた。母から外国に渡るには、背広、ネクタイ、革靴、腕時計等を新調するからと言われるも、私は外国にスカピンとした姿で遊びに行くの
でない。ある物を着て外国に働きに行くのだ。支度の心配はいりませんと母に語るも、母が再三支度の心配をするので、私も考えてから、「ブラジル行きを賛成してくれた秋元おじさんの古着なら着用する」と母に申すと、母が早速秋元叔父さんに手紙を差し出すと、一週間後に返事があり。
 母と私とで秋元おじさん宅(浪江町藤橋不動尊神社入口)に行きました。
 さすがに校長職だけに、スカピンとした支度を沢山持っていたのに驚いた。
 おじさんは新品をあげるから着て見なさいと語るも、それは断り、
 「私もいつか出世するようにと、おじさんが着用したものを頂戴することにした。」
 それは初めて着る背広、時計、ネクタイ、高帽子、靴はかなり大きいので、おじさんのカバンを切って下敷きにしてくれた。これで支度は整ったのであります。
 帰り近くにおじさんから、盛長、親というのは子供が十人いても、目に入れても痛くないほど皆かわいいんだよ…、尻切れトンボや鉄砲玉ではダメだ。いつも外国での生活内容等を知らせることを忘れるなと説教された。私も素直に、はいわかりましたと返答する。
 いつの日もいつの日もおじさんの言葉は忘れることはなかつた。

 第十章 いよいよ実家を出発

 出発の前日、ブラジルに行ったなら盛長の好物の柏餅などないから沢山食べなさいと造ってくれたので、十二、三個ペロリと食べる。今夜は一生涯の最後の日になるかも知れないから、父と母の間に寝なさいと言われた。
 母は明日は出発だと泣く。親に対して申し訳なく思う。
 父は私に三萬円の大金を渡す。「盛長、よく聞け! お金は欲しいものを買ってはダメだ。よく考えて、必要なものを買うんだ」と語って渡された。多分農協から血が滲むお金を工面して、私に渡されたのにびっくりする。 (当時米一俵60kg三千二八○円)父からの一言が私にとって大きな宝であった。
 当夜は三萬円を枕の下にお守りとして寝たが、なかなか寝付きませんでした。夜明けと共に起き、父に私はお金を使うためにブラジルに行くのではないと昨夜お預かりした三萬円を返すも、受け取らなかった。 異国には誰一人知人も親戚もいない。お金は命と同様に大切だと話されるも、私はどうしても受け取る気になれず、そっと神棚の奥に三萬円を置く。 最後になるかもしれないので、先祖のお墓参りをし、おじさんから頂戴した背広、革靴、高帽等少々大きいが着用。風呂敷包み一個片手に持って、昭和二十八年(一九五三年)六月十二日当時十七才、実家を出発する。
 常磐線磐城太田の停車場に着くと小生、小僧の見送りに大勢の方々が来てくれたのに本当に驚いた。 区長の荒川千代治さんと組長の西内治さんが、数十本の日の丸の小旗を造って来たのです。丁度終戦前に徴兵されて兵役に出発する風習のようであった。大みか村長畑島好さん、婦人会長大滝トメヨさん、杉山金一先生、本間栄寿先生、牛来康家先生、消防団長菅野定次郎さん、村議員島弘さん、草野芳雄さん、高田利造さん、助役佐藤善助さん、県会議員山尾清海さん、大みか中学校学友、原田勝男君、荒木信男君、斎藤伸一君、鈴木毅君、稲田善則君、若林幹夫君、熊耳浩君、佐々木一孝君、瀬川敏彦君、西内フクヱさん、石井廉さん、大内マスイさん、遠藤キヨさん、部落の皆さん、親戚兄弟達が見送って下さったのです。
 帰国してから父の覚帳を見せられ知りましたが、餞別は五〇円~二〇〇円の時代であった。人数七十二人、総額九七〇〇円。覚帳も仏さまに六年半も置いてあったため、線香のすす煙りで煤けていた。 午前八時発の普通列車。大勢の方々が片手に小旗の日の丸をちぎれる程に振って、元気で行けよ、体にはくれぐれも気をつけて、必ず日本に帰って来るんだよー、来るんだよと、あるだけの叫び、歌声をあげて涙声に変わりながらも見送って下さった。私も胸いっぱいで、こぼれる涙で声を出そうとしても出なかったが、小生のために大勢の方が見送りに来てくれた事は、私に対しての大きな期待であると受け止め、日本のためにも、小さな体でもがんばります。皆さんありがとうございましたと、むじゃきで小柄な5尺体の少年の挨拶であった。
 少し生意気に見えたかも・・。
 両親は母親の実家がある浪江駅まで送ってくれた。浪江の駅には、秋元おじさんとイトコの木幡寛一兄が見送りに来ていた。
 汽車の中で両親に神戸港や横浜港からいつ出航するかわからないので、見送りに来ないで下さいとお願いする。

 第十一章 東京海外移民収容所

 仲内家族と合流して、六月十二日午後四時頃収容所に入る。外国に渡るには、特に目の病気(トラホーム)は厳重であった。少しでも目が充血している人は、一切渡航はできないとのことで、検査は厳しくそのため二日間連続の検査であった。
 初日の検査では少し充血しているから、失格であると言われた時は、大勢の方々に餞別を頂き、見送りされたのにここで渡航ができなかったらどうしようと心配で当夜は眠れなかった。たぶん最近まで数日間は興奮と苛止ちが重なって、睡眠不足のためであると思った。
 二日目の再検査をビクビクしながら受けたところ、合格と言われた時はほつとしました。原町出身の西内さんのおばあさんは二~三日治療するように医者から言われたようであった。  六月十五日夕方神戸移民収容所に着く。早速父に饒別をお寄せ下された方に礼状を出すため、名前と住所を知るため手紙を山す。同じくブラジルに行く人の支度はスカピン?腕にはピカピカの新型時計、足元もピカピカの新型革靴を履き、国会の役人が旅行する気分のように見えた。私は相手を拒んだり、羨むことはしたくない。これから未知な国に渡って、大きな夢を実現させようとする人の心得が欠けていると感じた。
 それにしても私は作業服一枚も用意していない有様で慌てて作業服十着、ズボン十着下着数枚、作業靴五足、護身用の短刀一振、安いカバン一個を揃え、実家を出るときの風呂敷包み一ヶを合わせて一留の荷物とする。
 人の噂によると、私達入移する地区は山奥で、土人と黒人しか住んでいないのことであったのであった。両親に日本で最後の手紙を書く時はこれでしばらくお会いできないと思うと、不思議と涙が止まらなかった。
 実家を出発する時、神棚の奥に置いた三萬円のことも書き、私のお守りとして、百円札一枚残し、あとのお金すべてを実家に送金した旨書き添えて、六月二十四日、神戸郵便局に投函する。

 第十二章 神戸港出発
 空に雲一つない日本晴れに恵まれ、港には大きなアメリカ丸一万五千トンが、岸壁に着いていた。昼食を済んでから各自の荷物検査があり、午後一時過ぎ乗船となった。
 昭和二十八年(一九五三年)六月二十五日午後三時出港。なんとも表現できない寂しいドラの音が高く響くと共に、大勢の見送りの方に船上から五色のテープが百糸のように垂れ、お互いにあるたけの声で、元気でいてねー、いつまでも元気で…。カメラがないので撮れなかったのが少し残念です。大阪商船アメリカ丸は貨物班を改造した移民輸送専用の貨乗船であると数日後に知った。
 私達仲内家族は、船首の部屋を割り当てられた。二段式のベッドで、ベッドに慣れないため、夜中に数人の者がドスンとベッドから転げ落ちた。私も二度ころげて手首を痛めた。
  二十六日夕方四日市港に寄港して横浜港には翌日早朝に接壁した。沢山の荷物を積み、午後四時、横浜港を出港するときばかりは、「これで日本国ともしばらくお別れか」と思うと我慢できずに、ぽろりと涙が落ちた。
 ボーボーの汽笛は寂しくも感じたが、ヨーシ頑張るぞと強く胸に誓った。 三十八家族百六十人乗船して四日目に強風と荒波で船体が大揺れ、食卓の食器が左右前後と音をたてて滑り落ちると同時に、ほとんどの人達は食事が喉を通らず、酷い船酔いに悩まされた。 私は中学二年の時相馬地区の陸上対抗があり、大みか中学校の代表として千メートル走ることになり、磐城太田駅から乗り三ツ目北先の相馬駅に行く途中、汽車に酔った苦しい思いがあり、三年の関西修学旅行は杉山先生に再三誘われるも、汽車に酔ったなら皆さんに迷惑をかけるからと行かなかったことがある。
 それが不思議である。汽車に酔う私が、大海原で左右前後のローリングにもかかわらず、少々気分は優れなかったものの、食欲もあり案外と平気であった。人間はすべて気持ちのもちかた次第であるとつくづく思いました。
 航海中はポルトガル語の勉強であったが、あまり身につかなかった。特に注意された事は、日本ではお金のジエスチャーを親指と人差し指で丸型にしますが、ブラジルでは、女性に対して失礼なので絶対にしないようにとくれぐれも言われる。太平洋航海中は目に入るものは何一つない。ただ蒼海の大海原であり、時折貨物船らしきものが遠くに見えるだけであった。小さな船でコロンブスはあの時期に航海はどんなに大冒険であったかを想像すると本当に偉大なる人間であったと感心するのみである。

 第十三章 初めての外国寄港

 日本を離れて十六日ぶりに最初の寄港はアメリカ国のロスアンゼルス港に七月十三日午後五時入港する。港は整然と美しい。作業員は大男三人の黒人でロープ掛けの仕事であった。世界的に有名な金門橋も遠くに見えた。近くに桟橋があり、船が通るたびに橋が左右に大きく開閉するのに驚きました。それに高いビル並と港の海水がキレイであった。
 神戸港を出港してから、四日市港、横浜港、ロスアンゼルスに入港も、上陸はできないようにタラップは下がっていなかった。
 十四日午前十時次の港メキシコに向けて出港する。二日後には大群のイルカ、トビ魚が船体に負けじと群れ遊びながら泳いでいた様子が見事であった。
 七月十九日メキシコ国のアカプルコ港に午前六時入港。熱帯らしく遠くの山並は赤茶の土色に見えた。港内の海水が澄んでいて、小魚が群れで泳ぐのがよく見えた。上陸許可が許されたので、アカプルコ港町を散歩するも、果実が沢山店頭に並んでいたのにびつくりしました。
 仲内さんがバナナを三房買って来て食べられるだけ食べなさいといわれたので、一気に十三本ペロリと食べた。本当においしかった。友人は十六本食べたとのこと、当時日本では一本五十円と記憶している。又一本を五分の一にして皮まで食べたこと思い出した。
 メキシコに住んで数年になる、宮城県出身の日焼けして健康そものの高橋さんが、アメリカ丸が寄港することを新聞で知ったとのことで、百キロ以上も離れている地区から日本国の事情を知ろうと自家用車で来てくれた。高橋さんは農菜を営んでいるが、メキシコはとっても住み良い国ですと、少ない時間を惜しむように語っていたのが印象に残った。
 同日午後三時に出港し、次の港パナマに向う。航海途中に赤道線を通過するため、船内でミニ赤道祭が催されたのが楽しかった。
 七月二十三日午後十時パナマ国のクリストバール運河の入り口に着く。運河を運行するため時間調整して夜到着したとのこと、船員が話していた。
 ここで運河の仕組を話そう。パナマ運河は、海面より数メートル高い位置に堰を止め、三段に分け水量を入れて同じ水面にしたところで、両側の機関車にて船体を移動する。三回繰り返して運河に入るのに一時間半以上もかかった。
 太平洋の航海は約十五ノット(時速二十四キロ)の速度であったが、運河内に速度は約八キロでゆっくり通過した。途中には数匹のワニが泳いでいた。時間と速度から予想すると運河の長さは百八十キロメートル以上あるでしよう。
 七月二十五日コロンビア国のバランキヤ港に午前六時入港、赤道直下に位置するため、夜昼関係なくめちゃくちゃに暑いのに閉口した。作業員は裸足・裸でのんびりと荷物下ろしをしていた。熱いお国のため黒ピカ肌であったが、大分見慣れたため親近感に変わった。午後四時近く次の港へと出港する。
 七月二十七日ベネズエラ国のバレンシア港に午後八時入港。日本からの積み荷おろしと、食料を積むのに二日間も停泊していたが上陸は禁止であった。
 私達が行くブラジル国にもいろんな人種が住んでいるだろうと想像し興昧津々であった。翌日午後五時過ぎ出港し次の港に向かうも、時折客船と貨物船に出会うが陸は見えない。
 八月一日、昼頃になると海面が茶色に変わって見えるので船員さんに聞くと、アマソン川が近くなると海水が濁流のために変色すると解説された。それにアマゾン川の入口幅は、なんと六十キロメートル以上で世界最大の川であると説明されて、なるほどとうなづくばかりであった。
 八月二日ブラジル国パラー州のベレン港に午前六時入港。トカンティンス川を上った港である。濁がすごく、幅も勿論広いが、片方の岸がかすかに見えるだけ、本当に広いなーと感じる。
 この港は浅瀬のため五千トン以上の船は桟橋につけないため、途中に停泊し小船に乗り替えて十家族(呼寄家族)下船する。彼等はピメンター(胡椒)黒いダイヤを栽培するんだと張り切っていた。お互いに体に気をつけて成功して、いつかお逢いしようと握手し、午後十一時ベレン港を離れる。

 第十四章
 世界三景のリオデジャネイロ港

 空高くサンタマリア塔が聳え、なんとも表現のしようがない優美なマリア塔は世界の三景だけあってあたりの景色は本当に美しい。
 日本の皆さんにお見せしたい思いであった。 昭和二十八年(一九五三年)八月十日午後十時三大美湾リオデジャネイロ港に入港。横浜を出港してから四十四日目であった。
 港内には小島がたくさん浮かんでおり、その内の小島に私達が入る収容所があった。 私達が入移する予定のバイヤ州ウナ移民地は森林の未拓地で住める家がないとのことで二十八家族が住む家が出来るまで、この収容所で一時的に待機すること五十日間であった。
 不安と早く現地に行きたい気持ちが交差して、夜など目が覚めて眠れなかった。この期間は航海中に渡されたポルトガル語の教本小冊で反復練習の毎日であった。一週間過ぎた頃、仲間二十四人で管理人宅に行き、手まね、足まねして、落ち葉の掃除手伝いをする約束をする。収容所にいる間は、毎日朝晩若者たちで手伝いをした。管理人は私達にジェスチャーで言葉の練習を教えてくださった。ボンジア「朝のあいさつ」コンタ「数字の数え方」等であった。失敗もあった。数字の九を日本調に発声するなり、母と娘が笑うやら、青色になるやらであった。
 一年後にこの意味を知ったが(汚尻のこと)無礼なことを言ってしまって失礼しました。収容所に滞在中に友人、親戚、両親などに三回便りをするも、返事一便もないので正しく日本に発送されたのかと疑う。
 約百メートルとなりの小島は犯罪を犯した人達の牢獄のこと、脱出しようとして海に飛び込んだ者が銃撃され
るのを見た。悪人はどこの国にもいるもの注意しないといけないと思った。

 第十五章 バイヤー州ウナ移民地

 リオデジャネイロ港から二千トン位の客船ポコネ丸で、九月二十九日午後四時出港する。船内は狭く一日中ハンモックでの生活。夜になると大群のゴキブリがわんさと出現し顔などかじるので眠れない始末が七日間続く。
 航海中赤ちゃんが亡くなり水葬(母親の母乳が出ず、ミルクも牛乳もないので栄養失調が原因であると察する)
 十月五日午後一時にバイヤー州イリュウス港に入港。いよいよ目的地ウナ移民地に、トラック十台に二十八家族が分乗し、一路ウナ地区に向かうが、砂埃で一寸先も見えないもじんかんのすごい塵巻。両脇は大密林。私も覚悟はしていたものの、それはそれは想像も絶するもので大ジャングルには驚いた。
 午後七時過ぎ現地に到着。どの人の顔も砂ほこりのため、目だけギョロリと光り、すさまじい姿であたった。港から百七十キロメートル以上、時間から計算すると離れていると思われる。
 到着した瞬間自分の頭の中で描いたブラジルとは実態は全然違うと感じた。でもこの地に来ての後悔は後の祭りだと諦めるように心掛けた。それにしても「国県が奨励した移民企画はあまりにも出鱈目である」と感じた。
 世話人は江戸川さんで、通訳もしてくれる方であった。住まいは六家族一棟で五棟あった。ベッドは細い丸木を束ねその上に野生のヤシの葉が漉いてあるだけ。熱い国のため着たまま寝る。夜の灯りはもちろん電気などはなく、ランプ一家族に一個配られただけである。月夜などは野外で仕事の打ち合わせをしたこともあった。
 世話人に仕事内容を聞くと、一世帯二十町反の原野にゴムの木、カカオの木栽培し、収穫は五年後のこと。この間の生活には一年後に収穫できるパイナップル一世帯二~三千本栽培するのことで、皆さん張り切って、割り当てされた山を伐採始めた。
 しかし入移して三ヶ月内に高熱病か日射病に冒されて、二人死亡した。九州出身の鈴木さんの奥さん(二十四~五才)は両親が大反対のところ、鈴木さんは十年内に必ず成功して日本に遊びに来ると約束してどうにか両親の許しをもらって来たのに、大切な掛けがえのない奥さんが死んだのであった。日本の両親に何と連絡してよいか困ったと、二日間も涙が枯れるまで男泣きしていた姿が強烈であった。
 世話人はウナ地区の現状をきちんと領事館及び大使館に連絡しないからだ。「このままでは入移者全員死んでしまう。我々はブラジルに死にに来たのではない。働きに来たのだ」と、数人で世話人を木の蔦で縛って広場の大樹に吊しあげた。世話人の方には気の毒であったが、生きるか死ぬかの瀬戸際ですから、こうするほかになかった。
     革命でも起きたと思ってか、翌日軍隊らしい装備で二台のトラックに三十人位来て、厳戒体制であった。それに当日から配給米は一切止められ三週間近く続いた。でも食べないと生きられない。私も鈴木さんの奥さん同様、両親、親戚の反対をむりやり押し切って来た身分、ここで病気になって死んでたまるかの意地と飢渇して死んでは両親に申し訳ないと思った。
 終戦以前にインドネシア地方にいた方の話しによると、熱帯地方には必ず、タタルガ(陸亀)がいると言うので若者五~六人で陸亀探しをする。しばらくすると、川辺に高さ一メートルほどの土の山があった。あれが陸亀の山だと叫んだ。穴は五ヶ所あった。三ヶ所の穴を塞ぎ、一ヶ所に枯れ木をつめて火をつけ、煙すこと一時間もすると、大きな亀がのそのそ出るは出るは、五~六匹出てきた。今日は二匹丸焼きにすることに決めた。亀の大きさは三十キロ以上あり、最初はあおむけにして焼くも、暴れだした。かわいそうであったが首を長く出したところで切り落とした。空腹のため半生で食べるが、鼻につく匂いが咽って、なかなか喉が通らなかった。
 トカゲは抵抗なく数匹食べられた。プレゲゾーザ(なまけもの)数匹見たが食べなかった。近くに土着人が植えたものと見られる、大樹のジャッカの木があった。木の実が熟した甘い匂いがするので、試食すると美味しいので空腹のあまり沢山食べるも、顔手が黄色になると共に激痛になる。応急処置もないのでトカゲを食べて三日間辛抱した。
 「三十年以上ジャングル生活をなさった旧軍人横井さん、小野田さんのなみなみならぬ精神力には敬服します。」
 毎日肉食だけに頼らず、片道二時間歩いたり、一晩中過ごしたこともあった。故里を思う弱い人は、大物にはいないよ、浮薄者は出世しないよと自分に聞かせたこともあった。ほんの短い期間であったが、精力的に仕事に奮闘した体験は貴重であった。

 第十六章 第二のイツペラ移民地

 ウナ地区に入移した二十八家族の内、五家族は十二月二十八日ミーナス州に移転する。
 仲内家族私達は昭和二十九年(一九五四年)一月二十三日午前九時同じバイヤ州内のイツベラ地区に十家族移動することになり、翌日一月二十四日午後四時近く目的地に再入移する。
 この地区地には少数の土着人が住んでいる様子であった。ところが入移した地区には住む家一軒もない、飲む水もない、暗闇を照らすランプ一つない、何もない所に入れられた。先のウナ地区から移った天罰と思い、皆我慢しようと声をかけ合って兎角住む家十軒築ることにした。
 まず仮小屋一軒出来るまでは、野外に十家族雑魚寝した。仮小屋は原始人の住まい同様な形を造った。幸わい雨も降らず、原野には沢山の野生のヤシが生育していたので助かった。ベッドはすべて丸太木を並べ、その上に木の皮とヤシの葉を塵いた。
 飲む水は百メートル以上離れた谷間を利用して掘出し、水を溜め天秤棒で水運びするも、あまりにも遠く、急な坂道のため、水瓶に着く時はほんの少量の水しか残っていなかった。
 それにウナ地区での日射病の病と、入移して十日目には恐ろしいマラリヤ病に全員かかる。一日二回決まった時間に発熱のため、全身がガタガタ震えるのである。  「冶療する薬も勿論医者もいない。ひたすら熱が下がるまで我慢するだけ。」
 近くに自然の池があり夜になると大声を出すジャンボ蛙がいた。それとおおきな黄金色の蚊(マラリヤ発生源)が群れをなしているのを発見。直ちにこの池の水を排水することにし、仲内さん先頭で作業始めるも、マラリヤ病でバタバタ倒れたため、作業は進まなかった。
 二月下旬原町出身の西内さんのおばあさんと宮城県出身の十四才の女の子が、悪魔の黄金色の蚊に刺され吐息のまま息を引き取った。 その時、もしかしたら私も
うさぎししきつねかなしむ
かなと心細くなった。
 二人の苦しむ姿を見て、あの苦しみになりたくない、堪忍袋も限界にきていた。日本出発する時用意した護身用の短刀で自決する気にもなった。
 三月十日、領事館からの依頼であると福島県人の村井さんが視察に訪れた。私達の現状を見て驚きながらも口にはせず、「このまま我慢してこの地区にいなさい」とも「この地区から出なさい」とも責任者として言えないとのことでした。(結局は各自勝手にしなさいともとれた。)
 領事館に戻ってこの現状を有りのまま報告すると約束して帰る。この時村井さんに、この地区から出るにもお金がない。「こなままマラリアで死にたくない、助けてください」と、仲内さんと共にお願いする。
 三月二十二日、偶然と私の誕生日に助け船のお金が村井さんから夢のように送られて来た。この地区を脱出するには、身軽くしなければとすべてを金品に替えることにし、元の風呂敷包み一個にする。写真、百円札一枚、護身用一刀は大切にした。
 三月二十五日、残る九家族と別れを惜しみたがら脱出始めた。慣れないポルトガル語で手まね、足まねして五日間かけて三月三十日飛行揚のあるイタブナ町にでる。
 「この五日間はすべて野宿、時には野生の動物に襲われないように木の枝に二晩寝たこともあった。」
 ころげ落ちないように体をしばりつけて。脱出中もマラリヤの再発に悩まされた。パンのカケラでは空腹のため、トカゲを捕み、二~三匹食べた。イタブナ町に来て現地人にサンパウロ州まで汽車で行くには何日かかると尋ねると三十日以上とのことであった。
 五十人前後乗りの小型飛行機に三月三十日午後一時リオデッジャネイロ行きに乗る。途中で給油と乗客を乗せ、四時半リオ空港に到着。上空を旋回している間、六ヶ月ぶりに見るサンタマリア塔をなつかしく感じると共に、自分の頬を抓って痛いと感じたので安心した。

to be continued
小林盛長自伝つづき

 

 

 

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