原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

浪江の自殺 2014

曖昧な喪失の中で ―福島 増える震災関連自殺―
この放送回の番組まるごとテキストを掲載しています
2014年7月8日(火曜)再放送2014年7月15日(火曜)

東日本大震災から3年と4か月が過ぎました。
しかし、原発事故によって復旧を阻まれてきた福島県の沿岸部は、いまだに津波の爪痕をさらしたままです。
時が止まってしまったかのような福島。
今、震災関連の自殺が増えています。
内閣府自殺対策推進室による、震災関連自殺の集計です。
この3年間を見ると、岩手、宮城に比べて福島の増加傾向が顕著です。
2011年10人。2012年、13人。2013年、23人と、増加の一途をたどっています。
相馬市のクリニックで被災者と向き合う、精神科医蟻塚亮二さんです。

蟻塚:ここに来られた方で、別にうつ病って診断もつかないし、単なる不眠だっていう人がいてね。
私、たまたま聞いてみたんだけど。
「もしかして死にたいなんて思った事ありますか?」って聞いたら、「あるんだ」って。
そういう人がとっても多いんです。

震災に原発事故が重なった福島。
なぜ、多くの人が自ら命を絶っているのでしょうか?
五十崎喜一さんの場合

五十崎栄子さんは浪江町から避難し、二本松市で暮らしています。
この日、故郷の墓を参りました。
栄子さんの夫、喜一さんは2011年7月、自ら命を絶ちました。享年67。
原発事故から4か月後の事でした。
放射能に汚染された浪江町には容易に入る事ができず、喜一さんの遺骨を納骨したのは去年7月の事でした。

五十崎:浪江に帰りたくて帰りたくていたから…だからね。
まあ、お骨になって浪江に帰るようにはなっちゃったけど。
まあ、こうやって帰ってきただけでもいいのかなって。
これ、いつもおとうさん飲んでたコーヒー。
決まったコーヒーしか飲まなかったから。ねえ。

喜一さんと栄子さんが暮らした町は、福島第一原発からおよそ8km。今も避難指示が出たままです。
この家には喜一さん栄子さん夫妻喜一さんの母、そして夫妻の孫が一緒に暮らしていました。
孫は35歳で亡くなった長男の息子でした。
近所には次男家族、それに喜一さんの妹と弟の家族も暮らしていました。
ここには祖父母の代から続く時間と、子どもたちの未来につながる時間が流れていました。

取材者:これはお仕事されていた頃からのですかね?

五十崎:そう。よく何か集まりあったりとかなんかすると、よく着てたのがやっぱりね。
その時期、その時期ありますけど。
これとこれをよく着てたんですよね。

取材者:お気に入りだったもの?

五十崎:うん。
これですね、作業服は。

喜一さんは、福島第二原発の資材管理を請け負う会社に勤めていました。

五十崎:制服だったんですけど。

65歳で仕事を辞めてからは、看護師として働く栄子さんを支えていました。

五十崎:これなんかだってね、震災の時の3.11のままなんですよ。
私がお昼に戻ってきてお昼ごはん食べるじゃないですか。
それをおとうさんが準備しててくれて、そのままなの。
ここんとこにあるのは全部、おとうさんの釣り道具です。

喜一さんは釣りが趣味でした。
避難する前散乱した釣り道具だけは、戻った時にすぐ使えるように元の場所に戻していました。
釣り仲間と撮った写真です。
大会の前は、遠足の時の子どものように眠れませんでした。
夜中から港に行って、車の中で仲間が来るのを待っていたそうです。

五十崎:だからいつも、お盆になると毎年子どもたちとか兄弟集まって、おとうさんが釣ってきた魚とか、あとは川で釣った鮎とか、そういうのでバーベキュー、庭でやってたんですよ。

お盆は毎年決まって。
喜一さんが子どもの頃から親しんだ、浪江の海です。
家族、親類、仲間たちに囲まれた平凡でも穏やかな日々。
原発事故はその全てを奪いました。

五十崎:「あの煙突の下では、今やどんな事になってるの?」みたいな。

3月12日朝、浪江町の住民に避難命令が出ました。
栄子さんと喜一さんは母や孫、兄弟家族と共に浪江町北西部の津島地区に逃れました。
たどりついた小学校の校庭は、避難してきた人たちの車でいっぱいでした。
体育館での不安な夜。
喜一さんは、小さな子どもたちのために奔走しました。

五十崎:「子どもら、腹減った腹減ったって騒いでんのに、そんなんやったらこんなお握り1つ2つで、どう間に合うんだ?とか言ってきた!」とか言って。

津島も安全な場所ではありませんでした。
13日、栄子さんたちは郡山に向かいました。

取材者:これですかね?

五十崎:これが体育館ですね。

落ち着いたのは市内の高校の体育館でした。

五十崎:3月13日の…そうだね。
3月13日の夕方にここの体育館に入って、4月13日までちょうど1か月いたんですけど。

栄子さんたちが入った3月13日の映像が残っています。
既に支援物資の搬入が始まっていました。
喜一さんは当初は家族の食事を受け取りに行ったり、周辺を散歩したりそれまでどおりの様子でした。
変わり始めたのは1週間が過ぎた頃でした。
原発事故は最悪の事態に陥っていました。

取材者:夜は休まれてたんですか?

五十崎:休むっていうよりもストーブのそばに椅子を2つ合わせて、そこにもたれかかるようにして脚伸ばしているっていう方が多かったんですね。

取材者:布団にも入らないで?

五十崎:はい。「お布団に寝たら?」って言っても、「後で、後で」って言って、結局寝てなかった方が多かったですね。
原発に何かが起こったらばもう駄目だぞっていうのは、それは生前から言ってたので。

取材者:事故の前から?

五十崎:はい。だから、そういう事が分かってたから?なおさらの事浪江にもう帰れなくなったというのがあって。
もう、ばあちゃんとおとうさんはやっぱり毎日のように「浪江に帰りたいな」って。
ばあちゃんはばあちゃんで「いつになったら浪江に帰れんだ?」って。
で、それが一日何回も言うしね。
だから、おとうさんも苛立ってくると「俺だけでももう浪江に帰るから!」。

4月半ば郡山の避難所は閉鎖され、栄子さんたちは二本松市内に?アパートを借りました。
そのころから母、シズイさんに異変が生じました。
避難生活の中で認知症を発症。
ほどなく、徘徊が始まりました。
母の発病、孫の進路、浪江の家のローン。
喜一さんは、頭の中がいっぱいいっぱいの様子だったといいます。

五十崎:最初は少しはよかったのね。
何となく落ち着いた気持ちがあるのかなっては思ってましたけど。
そのうちほら、ばあちゃんがいなくなったりとか、保護されたりとかってなってきたら、もうまた、そこからおとうさんは沈み込み始まって。
部屋の中にいる時はほとんど横になって、テレビをつけっ放しで。
テレビも原発の事故の事しかやってないじゃないですか。
だから、目つぶってるから寝てるのかなと思って、私はテレビ消そうかなと思うと「消すな」。
だから、多分見てはいなくとも聞いてはいたんだと思うんですね。
テレビつけっ放しでいるという事は。

終わりが見えない沈鬱な日々。
そんな中でも、喜一さんが元気を取り戻す時がありました。
小澤是寛さんは6月下旬のある日、喜一さんと一緒に新潟に釣り旅行に行きました。
浪江の釣り仲間たちが一緒でした。
浪江の海で撮った写真です。
仲間たちは各地にばらばらになっていました。

小澤:あの時は原発の事故の話、避難先はどこに避難してるぐらいの話で、もう皆さん思い出したくもないという、せめてこの一日だけでも思い出したくないという気持ちであったと思います。
仮設に落ち着くとか、どこに落ち着くとかいう問題で。
ましてや家族もばらばらになってるという事聞いてますので、まあこういう事態は発生するだろうなという事は、私はうすうす感じてました。
ただ、これだけ楽しんでいる仲間の五十崎さんが、まさかこういう道を選んでしまうとは夢にも思わなかったです。

7月10日、高校で野球部だった孫の最後の試合がありました。

五十崎:本当に初めて先発で。

喜一さんは孫が小学生の時から野球の試合には必ず足を運び、応援していました。
しかし、最後の晴れ舞台の日、喜一さんは「俺はいいよ」と腰を上げようとしませんでした。

五十崎:おとうさんはあんまりすぐれない表情だったんだけど、やっぱり一緒に最後の野球だからっていうので行こうって言って連れてきたんですけど。
でも、連れてきてもやっぱり…。
うちらは同じお母さん同士でこの辺にいても、何かおとうさんはそっちの方に行ったり、あっちの方に行ったりウロウロしていたんですけど。

取材者:いつもと違った?

五十崎:う~ん…。

先発投手を務めた孫は9回を投げきり、チームは勝ちました。

五十崎:だからおとうさんにとっても子どもにとっても、最後のいい思い出にはなったんじゃないですかね。
その2週間後にさそういう形になるなんて、誰も思ってなかったし。

7月23日朝6時ごろ、栄子さんは隣の寝床に喜一さんがいない事に気が付きました。
散歩にでも行ったのだろうと思いました。
喜一さんは、夕方になっても帰りませんでした。
携帯電話が食卓の下に置かれたままでした。
栄子さんは捜索願いを出しました。
警察から飯舘村のダム湖付近で遺体発見の電話が入ったのは、翌24日早朝の事でした。
月命日のこの日、栄子さんは喜一さんの妹と一緒に現場を訪ねました。

五十崎:この辺だったよね?
だから今、車運転しながら、おとうさんここの道走ってきたんだよねって。
でも、何を考えて走ってきたのかなって、今、話してたとこだったんですけど、全然見当つかないですね。
「なぜここで?」っていうのが。
蟻塚さんの話

被災者の心の健康を支えるために作られた、クリニックがあります。
精神科医、蟻塚亮二さんは2013年4月から診察に当たってきました。
原発事故の影響の大きさを痛感しています。

蟻塚:つらいけども目の前で津波で破壊されてしまったんだったら、なんとかしてまた家建てようかとか、借りようとかって考えつくけども家残ってる訳だから。
やっぱりそこに帰りたいという気持ちもあって、だけど帰れない。
しかも、帰れないんじゃなくていつか帰れるかのようなニュアンスで政府も言う訳だね。
だけど実際は放射能高いと。
なかなか帰れない。
だから、帰れないんだったら「帰れない」と言ってもらった方がいいんですよね。
だけど、帰れるかも分かんない。
でも、帰れないって。
この緊張関係っていうのがつらいですね。
曖昧な喪失っていうのがね。
で、住居っていうのは人間の心が安定するための基盤だから。
だから、あっち転々こっち転々というの避難してるって事は、自分のよりどころがなくなるんですね、気持ちの。
人と人のかみ合った関係にならないんですよ。
そういうはかなさ。
人に支えられてないっていう感じ。
それがやっぱり、人のメンタルな抵抗力を弱くしますね。
それはやっぱり死ぬ、自殺に近づくと思います。
増える自殺

夫を失ってから1年と2か月。
五十崎栄子さんは夫の自殺の原因は原発事故にあるとし、東京電力に損害賠償を求める裁判を起こしました。
相次ぐ自殺が、栄子さんの背中を押していました。
裁判を起こす3か月前には、よく行っていた浪江町のスーパーマーケットの店主が自殺していました。
避難先から妻と一緒に一時帰宅した時、ふっと姿を消し、翌日近くで首をつっているのが発見されたのです。

五十崎:またこういう犠牲者が出てるのかみたいな。
でも何か、そういう人の気持ちって分かるような気がしますね。
自分の夫がこうなったからっていうのも、あるかもしれないけどでも、やっぱりもともと浪江で生まれ育った人だったら、分かるような気がしますね。
帰れないっていうのもあるし、自分たちの生活設計だってあるし。
そういう事に悲観したって私は思いますけど。

どうしようもない孤独。抑えようのない怒り。
胸をよぎる自殺。
「いのちの電話」は、相談者の悩みや苦しみに耳を傾けています。
「福島いのちの電話」では、震災原発事故の影響を把握するために、相談内容の分析を続けてきました。
震災や原発事故関係の相談内容の内訳を、2011年度と2012年度で比較しています。
どの項目も大きな変化はなく、心理的不安・心の病を訴える相談は減っています。

渡辺:震災の直後は、やはりどうしても心理的な不安というのが、高まってた時期だと思うんですよね。
それが一定の落ち着きを取り戻したという事を、反映はしてると思うんですけれども。
やはり相談の中身を一つ一つ見ていきますとね、深刻なものも増えてきてますから件数だけではなかなか判断できないのかなとそんなふうに思ってますけどもね。

生きがい・人生観・社会観に関する相談件数を見てみます。
2011年度と2012年度で差はありません。
この項目を更に細かく分けて集計したものです。
自殺念慮、つまり自殺を考えるという声が倍以上に増えていました。
喪失感、孤独を訴える声も大幅に増加していました。

渡辺:震災の直後は「人のつながりを感じた」。
「改めて命の大切さを実感した」。
そんな前向きの話もありましたけれども、時間の経過とともにですね、「絆って聞くと腹が立つ」とか「孤独だ」「死にたい」。
そういう否定的、あるいは悲観的な声が増えてきているのかなというふうに感じますね。
いろんな障害があると思うんですね。
ですから何か絆という言葉で、いかにも復興が進んでいるんだという事に対して、少し腹が立つと。

女性:はい、「福島いのちの電話」です。

原発事故関連の相談は、年々通話時間が長くなっています。
2011年度の平均は29分でしたが、2012年度では46分に延びています。
悩みや苦悩が複雑化、深刻化している表れだと考えられています。
苦しみ続けている人たちが、すがるように受話器を握りしめています。
蟻塚さんの話

蟻塚:去年、2年ちょっと過ぎた段階、最初「仮設は2年」って言われて自分たちは入ったんだと。
それが2年過ぎて3年目になったか、もう限界だっていうのが去年の4月、5月ごろ言ってましたね、皆さんね。
最近は仮設も雨漏りするとか。
もう、何か耐え難いですね。
気持ちまで雨漏りしてくる。
気持ちも何か行き場なくなってくるんですね。
約40歳の女性なんですけどね。結婚して子どもさんもいる。
原発の時には大熊とか双葉とかあっちの方におられた。
今、中通りの方に避難しておられる人ですね。
で、彼女いわく…ここが私とっても印象的なんですけど、毎日放射能の事考えて生活する事に疲れてしまったと。
たまに仙台に夫と共に行くとその時だけは、気にしなくていいから気持ちがとっても楽になると。
ところが、帰ってくる時に宮城県と福島県の県境を車で越して、福島県に入るとまた気持ちが何て言うかな、閉塞するっていうか憂鬱になるっていうか、気持ちがつらくなるっていいますかね。
そういう人がそこだけで終わればいいんだけど、複合的なストレスっていうか、トラブルを抱える事がだんだんだんだん震災から2年たって3年たってって。
今、4年目になって時間がたってくると、いろんな問題が複合してくるの。
例えばね、子どもが今度幼稚園に行きだす訳だね。
そうすると、そこでの避難先の幼稚園だから仲間に入れてもらえるかもらえないとか。
子どもが幼稚園に行きたくなくなるとか。
幼稚園生同士のいじめとかという問題が発生すると、そこでまたお母さんの心の痛みっていうのがまた、引き裂かれる訳だね。
だから時間がたてばたつほど、問題が過去形になって整理されて小さくなるんじゃなくて、避難先にいればますます問題が複合化して複雑になって、2世代にわたって深刻化してくる訳だね。
だから、問題が雪だるま式に拡大していく。難しいです。
今年はたんと難しくなりました。「助けて」っていう感じ。

エピローグ
喜一さんが亡くなって3年。
栄子さんは、なぜ夫は飯舘村のこの場所を選んだのか、考え続けてきました。
夫は懐かしい海を見に行ったのではないか。
自殺したのはその帰り道だったのではないか。
今、栄子さんはそう考えています。
当時、故郷浪江は警戒区域となり立ち入る事ができませんでした。
浪江の海に近づくには飯舘村を抜けて、浪江の北隣、南相馬に行くしかありませんでした。
喜一さんが見たかもしれない南相馬の海。
そこは原発事故のため復旧工事の手も入らず、無残な傷痕をさらしていました。

五十崎:多分自分でもう一度見に行って、そこでまた?ショックを受けちゃってこっちに入ってきて、自分でそんなふうに感じてしまったのかなって。
悲観的になって。
やっぱりあれじゃ、帰れないみたいな。

今年に入って、震災関連自殺は4月までに岩手県1人、宮城県1人、福島県は既に6人を数えています。

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