原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

原町空襲と南相馬の被害者

 ●突然の原町空襲で東北初の被害
 昭和20年2月16日、連合軍機動艦隊の艦載機による東北初の空襲が行われたのは原町飛行場が狙われたからである。戦略拠点として硫黄島の奪取のために本土からの迎撃を防ぐための突然の先制攻撃だった。
 当時、豊島区長崎国民学校4年生の神尾千鶴子は鹿島町の中村旅館に集団疎開していたが、日記にこうしるしている。
 二月十六日(金曜)晴
「今日は朝学校へ行ったらすぐくうしう(※空襲=くうしゅう)に、なったので、すぐ家へかへりました。それから、すぐひなんしました。てきのひこうきがばくだんを、おとしました。つちがあがりました。」
 飛行場に隣接する軍需工場の原町紡織では警戒警報もなく4人が空襲で死亡した。
 鈴木小松 39歳(高平・原町国民学校教師)3日後死亡。
 斉藤和夫 17歳(双葉町・相馬商業4年生)
 星スズイ 22歳(石神・原町紡織工場勤務女子挺身隊)一ヵ月後死去。
 大原ヨシ子 19歳(太田・原町紡織工場勤務女子挺身隊)
 注。女子勤労挺身隊とは、第二次世界大戦中の1943年に大日本帝国で創設された勤労奉仕団体のひとつで、主に未婚女性によって構成されていた。戦時日本の労働力が逼迫する中で、強制的に職場を配置換えする国民総動員体制の補助として行われ、工場などでの勤労労働に従事した。
 海の彼方の中国大陸や南方島嶼の前線の戦闘ではなく、銃後と思われていた本土の故郷の町が戦場になった日だった。
 ●平と仙台の空襲で
 3月10日の平空襲と7月10日の仙台空襲では、南と北に赤く夜空を焦がす空襲の戦火が見えたという。仙台では原ノ町、磐城太田の駅手をつとめる女性職員が鉄道研修所で空爆死している。
 終戦の翌年発行の「鉄道殉職霊記」には仙台空襲で殉職した女性駅手の名もあった。
  原ノ町駅  泉田照子
    〃   横山ノブ
    〃   末永 圓
 磐城太田駅 武内ミサ子
  彼女たちもまた、悲運の犠牲者であった。
 ●8月9、10日の大空襲
 再び南相馬が空襲されたのは昭和20年8月9日のこと。原町飛行場と原ノ町駅機関区を中心に、無線塔もロケット弾を撃ち込まれた。
兵舎がわりに使用されていた学校などのほか一般民家にいたるまで全域で無差別に銃爆撃され自宅で避難中に被弾し死亡した。
 木幡 貢 26歳(大甕)
 木幡孝夫  2歳(大甕)
 高橋イク 39歳(太田)
 飛行場の攻防の戦闘で10日、戦死者も出た。原町陸軍飛行場では、17歳の無線担当の兵長平体國友が戦死した。(没後伍長)上官が遺族に連絡した手紙によると「払暁、ご子息は米軍の空襲により太田村字太田にて戦死」とあり、これは太田村と石神村の境界にあった飛行場のことらしい。
 また岩手県後藤野飛行場から太平洋の連合軍機動艦隊をめがけて出撃した特別攻撃隊の渡辺秀夫少尉の99式軽爆撃機が索敵できずに緊急避難しようと原町飛行場に着陸を懇請したが、すでに滑走路が爆撃されて危険で不能のうえ夜間であったため近くの山林に墜落、戦死した。
 8月9、10日の空襲は東北地方最大の攻撃となった。とくに鉄道が狙われた。7月以降常磐線を運行中の機関士が銃撃で負傷し、ついに10日の空爆では原ノ町機関区の検査掛防空壕が、隣接する石造りの車庫への猛爆の爆風で潰され10名の機関区員のうち6名の殉職者を出した。
 小林安蔵 45歳(検査掛)
 酒本幸蔵 41歳(検査掛)
 志賀照雄 41歳(検査掛)
 二上兼次 38歳(検査掛)
 高橋 直 34歳(検査掛)
 新妻嘉博 16歳(技工手伝)
 原ノ町駅構内では岩手県からの女性乗客一人が死亡した。
 鹿島町でも鹿島御子神社境内周辺や烏崎の各自宅や畑で空襲死者が出た。
 小椋ツヨ 51歳 江垂
 菊池敏子  8歳 町
 桑折金次 14歳 烏崎
 佐藤カメヨ    烏崎・8月18日に死去
 寺岡夏治 61歳 江垂
 戦後になってから不発弾などでの事故が頻発し、小高町の片草の川原工場の社宅で原はつさん、また原町の大町の主婦が事故死した例もあった。
 ●双葉郡の空襲記録の実写カラーフィルムが公開
 終戦70年にあたる今年、民間団体の手で米国国立公文書館から購入した日本空襲の実写フィルムの中に富岡、大熊、浪江の各町の鉄道や飛行場への空爆実写映像が含まれており報道公開された。昨年は原町市史近代編に米国戦略調査団の原町空襲の記録も収録され出版、今後の詳細な検証と研究が待たれる。

3.11南相馬

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