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卒論16

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 島尾が、従来の日本特有の私小説作家スタイル、それも破滅型と呼ばれる作家が甘やかされている状況に対して批判的であることは確かである。しかし、この点についていえば島尾じしんの一連の病妻物とはいったい何なのであろうか、という思いにかられる。
 「家庭の事情」小説とやゆされた島尾の一連の小説群は、真剣さを通り越した狂気と隣り合わせの精神状態で書かれ、したがって三角の舞台で猿芝居をしているのではないことは確実なのだが、結果的に救いようのない出口なしの作品世界によりかかっているものになっている。しかも、それは「ふしあわせ」にもみごとに独自の文学として成功してしまったのだと見るべきだろう。
 島尾の文学は、島尾にとっては不本意にも与えられた事件に対処し、対決している過程で出来てしまった偶然性の強いもののような気がするが、そのなかで作家としての観察と事件への挑戦は積極的である。
 島尾じしんが考えていた作家としての理想はどのようなものなのか分からない。が、これはひとつの見当なのだがたとえば島尾は著書「日本の作家」において、文学史にあまり聞きなれぬ明治の若い女性をひとりあげている。それは木村曙である。
 「浮雲」と前後して発表された木村曙の唯一の作である。「婦女の鑑」を評して、島尾は「多くの欠陥を持ってはいますが、実はそれは日本の近代化の過程にひそむ矛盾をそれによって生ずる苦しみがそのままさらけ出されているとみることもできますし、まだはたちに満たぬ少女の、自分には満たされなかった現実を、小説の中で果たそうとしたいじらしい努力と願いの中に、その時代の日本の窮屈な姿をとどめたと見ることもできるでしょう。」
 明治四年に神戸に生まれ、樋口一葉の小説が出現する二年前の明治二十三年、二十歳で結核性の腹膜炎のため死んでしまった木村曙という少女に関心を持った島尾の、自分とはあまりタイプの違う作家の作品をあげながら論じてゆくやり方には、ある意味では自分の文学をふりかえるところがあるのではないだろうか。
 この「日本の作家」で島尾があげている作家は、二葉亭四迷、幸田露伴、森鴎外、樋口一葉、国木田独歩、田山花袋、正宗白鳥、鈴木三重吉、武者小路実篤、豊島与志雄、室生犀星、牧野信一、小林多喜二、林扶美子、阿部知二、舟橋聖一、である。「自分が好きな作家と、その機会に読んで置きたいと思った作家とがまざりあうことになった。」と後書きにかいている。
 これだけの材料で判断はできぬが、島尾における私小説的手法について云々してみればそれは、島尾にとって意図して選択した形ではないだろうということだ。島尾は折に触れて、日本の、いわゆる苦行型私小説作家タイプに対して、きびしい批判を向けて居るのである。
 田中英光や牧野信一の自殺にふれて、その私小説をとりまく状況をきびしく批判しながらも、島尾はまた次のようにも言う。
 「勿論「私小説」克服も大切ですし、また他にも本格的なロマンというようなものも確かに存在するわけですが、牧野信一の一連の「私小説」の中にも、その発する音響を注意深く聞きさえすれば、はっきりそこには芸術的表現と現実把握が妥協なしにかちとられていることが分かります。」
 この言葉は、私たちが島尾の「私小説」を読むときにこそ、あらためてとらえ直さなければならないものである。あるいは、この言葉に、島尾の文学の誕生の秘密を解くカギがあるのではないか。
 なぜなら、島尾は田中英光の死にふれての「短い感想文」を書いて、私小説作家の破滅的ないきかた「あるいは死に方」をちやほや甘やかす日本特有の状況を嘆いてみせてから、十六年後に「田中英光全集」第七巻を読んで」と題するエッセイを書いている。「此度あいだに歳月を横たえさせて、もう一度彼を読んでみる気になったのは、彼の小説表現の仕方に抱いた興味がなお私の関心を去らず、その軽い疑いがどう変化するかというこころみであったからだ」として、自分の私小説表現の方法についてふりかえってみるふしがある。つまり島尾は、牧野信一も田中英光も否定してはいないが、私小説作家のふしあわせな生き方がもてはやされている状況を批判はしたが、彼らの生き方と小説表現にかんしては非常に慎重に観察の目を向けていたし、自らの生き方の試金石としていたと言ってよいだろう。
 

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