プロテスタントの勤勉が欲望の肯定資本主義を生んだ

NHKのEtv放送で「欲望の経済学」という番組があり、マックス・ウエーバーの「プロテスタントの勤勉が資本主義を生んだ」というテーゼについて解説し、利潤の蓄積によって資本が生まれ、これを投資されるサイクルこそが「欲望の肯定」という価値観の転換だった、と。
宗教改革のルターと並ぶカルヴァンの画像が、この欲望の肯定の大事に重ねられる。この組み合わせはちょっと驚きだった。

ふと旧約聖書のアモス書を想起した。
8章には有名な「夏のくだもの」のイメージが示され、つづいて4節から次のような古代イスラエルの商人たちの欲望の姿が示される。
 あなたがた、貧しい者を踏みつけ
 また国の乏しい者を滅ぼす者よ
 これに聞け、
あなたがたはいう、
「新月はいつ過ぎ去るだろう」
そうしたら、われわれは穀物を売ろう。
安息日はいつ過ぎ去るだろう。
そうしたら、われわれは麦を売り出そう。
われわれはエパを小さくし、シケルを大きくし
偽りの秤をもって欺き
貧しい者を金で買い
貧しい者をくつ一足で買い取り、
また、くず麦を売ろう。」

つまり現代の商業の度量をいつわって、
また消費期限をいつわって書き換えて伸ばし、悪徳のかぎりをつくして
原材料の表示をいつわって、社会的ルールの制限をさえ破りかねない商行為の逸脱が「勤勉」を超えた。「欲望のコントロール不能」が古代も現代も、まった同じ人間の本性なのだと。
そうしてその果てに、神は「霊性の飢饉」をもたらすという章の訴える結論です。
カルヴァンの「霊性の飢饉」という説教集を古本屋で入手した。
うちの近所の南福島教会というのがあって、カルヴァン系の教団である。
きまじめな学校の教員あがりが集まる教会で、松谷という教員の父か兄が始めた集会らしい。
その兄の松谷好明氏が教理問答集を翻訳しており、郡山と福島の二つの伝道所があり、双方の礼拝を担当していた牧師は高齢のため引退されたようだ。

靖国問題を教団の主要な批判活動にしている印象を受けた。日本会議が併呑している我が国の国会は、目の敵ということになるだろう。