2015.5.21

2015.5.21
終日、入力で7章分を叩いてアップした。おかげで、背中と腰が痛くて、もうこれ以上は椅子にすわっていられません。35年もまえに手書きで原稿用紙に書いて、一ヵ月で仕上げた「原町空襲の記録」をデジタルデータに人的パワーで。印刷屋に頼めば一時一円か5銭で変換してくれるが、その金がない。9円もやしで頑張っている。さて、寝床で読みかけの「記者たちは海に向かった」を読みながら、今日一日を終えようか。おやすみなさいませませ。5月20日の福島民友新聞社の創刊120年記念日に、民友投稿欄にメールで一本送ったしな。ゲンロン出版より、原稿料振込みの紙のメールが届いた。これで、紙代とインク代が出そうだし。

2019.5
原町特攻隊に思う終戦70年

 南相馬市図書館ギャラリーで「原町特攻隊の群像」と題して展示会をした。
 6月7日は陸軍特別攻撃隊「神州隊」が、6月11日は「国華隊」が相次いで沖縄の主戦場に出撃し、肉体もろとも敵艦アメリカ艦艇めがけて突入して戦死した日付である。原町特攻隊と呼ばれたこの2隊は、矢吹の振武第80隊とともに、福島県で編成された特攻隊だ。
 昭和19年10月から20年6月にかけては、原町飛行場で訓練した飛行兵たちがフィリピンへ沖縄へとあわただしく飛び立っていった姿が、70歳以上の町民の瞼に焼き付いている。
 旧相馬郡原町は浜通りの中核町づくりの牽引役として大正時代に国家的な磐城国際無線電信局を誘致したが、わずか6年で日進月歩の技術革新の波に取り残された。
 昭和15年に誘致した原町陸軍飛行場の翼の夢は同じく6年間という短さだった。
戦争では町は栄えないし続かない。豊穣を祈る相馬野馬追だけが1000年持続した。
 終戦70周年の今年は、戦後の偉大な平和と繁栄を逆戻りさせないためにも、あらためて国と町のゆくすえをじっくり考えたいと思う。

矢吹特攻隊の群像

2003年8月15日のTUFテレビユー福島放送「ニュースの森」で放送された。
 矢吹飛行場の振武80隊の愛称は、語り継がれていない。
 しかも、放送されたのはじつは8月16日予定の待機特攻隊であって、実現しなかった「赤トンボ」特攻のことだった。
 当時の特攻兵担当整備員大沼定雄さんが番組の主人公としてすべてを語るという内容になっている。放送当時74歳。
 昭和25年当時には22歳だった。終戦から五年後に、彼の思いを筆記していた原稿が残され、彼自身の思いを語る番組なので、特攻隊に関する情報はほとんどなかった。

特攻隊随行記 語り 大沼定雄整備員 文 渡辺正弘
 桜がちらほら咲き出す四月五日、大勢の町民に見送られ結集地である知覧飛行場へ向かって飛び立った。離陸直後、中の一機が東へ上昇したかと思うと、見送りの人だかりがしている飛行場を根差して急降下した。平木軍曹の機であった。皆に覚悟の程と勇姿を見せたかったのだろう。
 特攻用飛行機は急降下して敵艦に体当たりしやすくするため、後部座席を取りはずすなどの改造が行われ、できるだけ前部が重くなる構造になっていた。
 十二人の特攻機に六人の整備員が乗り組んだ。当時操縦者ばかりでなく整備員も不足していたのだろうか。
 大沼定雄整備員は当時十六歳、杉戸隊長のしんがりをつとめる平木曹長の機に乗り組んだ。両翼には大友勉少尉(二十歳)と、中似野鉄一少尉(十九歳)がいた。
 離陸した十二機は、最初の目的地熊谷飛行学校本校へ向かった。
 いよいよ関門海峡を超えて熊本県の飛行場を経て、特攻の基地知覧飛行場へ到着したのは、九州では葉桜の季節四月十八日であった。
 両翼の大友、中村の機は茶目っ気たっぷりにここまで飛んできた。上になったり下になったり、すぐわきに寄って舌を出したりおどけてみたりで、とてもこれから特攻で敵艦に体当たりし死んでゆく身とは思えず、いたずら盛りの子供の様であった。
 整備員は四月二十二日の特攻の日を待たずして四月二十日鉄路で矢吹へ向かった。(ここまで大沼整備員の記憶)
韓国の全羅南道で生まれた李充範(이윤범)は日本名・平木義範と改名していた。
 大沼整備員の印象とは違って、山田純清少尉はこう書き記している。
 私は昭和20年2月下館飛行場から杉戸勝平少尉、小川少尉、平木軍曹と共に矢吹教育隊へ転属してまいりました。間もなく杉戸少尉の振武隊特攻隊の2番機を拝命し、高練にて特攻攻撃訓練に励みましたが、4月の出撃のための鹿屋進出の際、前日にこの隊からはずされて私の替わり平木軍曹が出撃されて行かれました。
杉戸隊が矢吹飛行場出発時、平戸軍曹が「私は韓国人であるので日本敗戦後は韓国は独立して、韓国空軍の将校となる事が約束されている。日本のために死にに行くの不本意だ。山田は卑怯な奴だ。森山隊長に取り入って延命工作をした」等と山田をののしりかかって、泣き泣き離陸して行った事を憶えています。
 その後すぐに私は次の特攻隊長を拝命し、加賀谷、松永、五月女少尉、佐藤惟正軍曹、若山功一伍長を部下にいただき今度は中練による特攻編成となり、特高訓練に励みました。
8月末、加藤少将が来られて原町飛行場に残留していた全軍人を集めて「帝国はアメリカに負けたのだ。天皇陛下は城下の命を誓われた。今後は武器を棄て速やかに復員せよ」と命令を下されました。
 我々の隊も8月の末日か9月初旬だったか忘れましたが、最後のフライトとして原町から矢吹へ飛んで帰り復員することになりました。(ここまで山純清の記憶)
 この赤トンボ特攻隊の愛称は「皇基隊」。
 その後、高橋紀子さんという研究家が、故郷に戻って実家のそば懐石の店舗を継いで、矢吹飛行場の歴史を発掘。
 これまでやりやすい原町特攻隊だけに集中していた県内の放送局に働きかけて、ようやく2016年にFTVの笹川記者が中通り担当に異動されたおかげで、矢吹特攻隊の番組が実現した。

昭和史の慰霊祭に参加して平和を思う

 十月は南相馬市で昭和史の慰霊祭が続いた。かつて原町には矢吹とともに陸軍飛行場が存在し、太平洋戦争末期には特攻隊が出撃し、町民に強烈な印象を残した。しかし、若い世代に伝承されているとはいえないのが残念だ。
 先月十二日に原町飛行場戦没者慰霊祭が主催者が世代交代し開催され、二十五日に神風特攻隊中野磐雄少尉慰霊祭が最後の式典を終了し、これらに参加して故郷の昭和史をしのんだ。
 感傷だけでなく、平和の大切さを考える歴史教育の材料として、家族とつながる故郷の思い出として、具体的な記録や伝承が肝要だと思った。
 原発事故以来の故郷の存続を賭けた新たな宿題を背負った若い世代に、われわれの世代の反省をこめて、国策に流されずに自分の意思を持って参政(投票)行動の必要を伝えたい。
 すくなくとも先人の苦労に感謝する意識を大切にする生き方を実行してゆこう。
 家族や地域の高齢者から故郷の歴史を、今のうちに聞いておこう。

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