当時の朝鮮は、日本だった。内鮮一体のはずだった。
侵攻してきたソ連兵に、作家五木寛之の母親は家族の面前で暴行された。一九四五年のことである。
五木が平成14年に出版した「運命の足音」という本に、これを言ってしまわなければ死ねない、と書いた話。57年間ずっと、書けなかった。しかし、ついに書いた。母が「もう、書いていいのよ」という、微かな声で彼にささやいたのだという。これはマリアの声だろう。すべてを許す、という境地に達して、書ききった。彼の長く封印された家族史。ことしゲンロン・カフェに五木氏が招待されて「5分間、語らせてくれ」と、もっとも大事なメッセージがあるのだ、と語ったことを友人がFBに書いていたので、瞬間にこの逸話だな、と直感された。彼から、実況ネット放送を聞いたのか、というメッセージが来た。やはり、この話だった。
私は、ほぼ出版と同時期に義母が死んで一年目の記念式をした福島聖書教会で、牧師が五木の「運命の足音」の逸話を語ったので、要諦は知っていた。浄土真宗の親鸞の「悪人正機」は、もっともキリスト教の新約のパウロのローマ人への手紙ほかの神学に通底する内容で、宗教を超える追体験をわれわれに強いるのは、五木氏の渾身からの実話であり、57年間秘められた家族史を、ついに解禁した凄み、一生の重さである。一生を大衆小説として人気のあった有名作家が、なにゆえ原体験であるピョンヤンを舞台した家族史の最も酷薄な体験を赤裸々に描いて魂の解放をするほどの著述に達しえたのか。ロシア文学者であるスタッフの上田さんも同席していたはずだ。そんななかで、なぜ強姦と暴行、略奪の悪逆のかぎりをくりかえしたロシア兵が、一方で魅惑的なロシア民謡の男声コーラスを歌えるのか、なぜ五木氏が大学で家族の禁忌であったロシア語を専攻したのか。それこそ、少年の日に抱いた不思議な謎を一生かかって解いた結論がここにあった。要諦だけでも、メモしておきたい。

五木寛之の『運命の足音』(幻冬舎)あとがき

私は悪人である。12歳の夏から57年間、ずっとそう思いつづけてきた。
しかし、悪人といっても、胸をはって堂々と広言するほどの大した悪人ではない。真の悪人ならば、そこに逆転の救いもあるだろう。だが私はしょせん、ちゃちな小悪党であり、自分でわざわざ宣言するほどのまともな悪人ではなかった。
戦後からずっとそのことが私の心に黒い影をおとしてきた。小説を書きはじめて以来、何度その出来事を作品に書こうと考えたことだろう。しかし、私には、母親のことも、その他のことも、小説というかたちで作品化することにつよい抵抗があって、書けなかったのだ。
(中略)
このことを書いてからでないと死ねない、と、長年、思いつづけてきた。
これを最後に、しばらくこのような文章を書くことはないだろう。

やがてソ連軍が平壌に入城してきた。そしてそれまで他人ごとのように思っていた事態が、たちまち私たちの上にも降りかかってきた。
(中略)
その日の午後、私たち家族が住んでいた師範学校の舎宅に、突然、ソ連軍の兵士たちが姿をあらわした。彼らはマンドリン銃と私たちが呼んでいた自動小銃をかまえて家に入ってきた。なかには旧日本軍の南部式拳銃を手にしている少年のような若い兵士もいた。
父は風呂に入っているところだった。母は半年ほど前から体調をくずし、居間に布団をしいて寝ていた。私は風呂の横にいたのだが、なにをしていたのか、どうしても思い出すことができない。そのあたりから私の記憶は、フラッシュ撮影のように一瞬、鮮明になったり、消えたりする。幼い弟と妹がどこにいたのかも、記憶にない。
ソ連兵に自動小銃をつきつけられて、裸の父親は両手をあげたまま壁際に立たされた。彼は逃げようとする私を両腕で抱きかかえて、抵抗するんじゃない!と、かすれた声で叫んだ。悲鳴のような声だった。
(中略)
それから一人が寝ている母親の布団をはぎ、死んだように目を閉じている母親のゆかたの襟もとをブーツの先でこじあけた。彼は笑いながら母の薄い乳房を靴でぎゅっとふみつけた。そのとき母が不意に激しく吐血しなかったら、状況はさらに良くないことになっていただろう。
あのとき母の口からあふれでた血は、あれは一体、なんだったのだろうか。病気による吐血だったのか。それとも口のなかを自分の歯で噛み切った血だったのだろうか。まっ赤な血だった。
さすがにソ連兵たちも驚いたように、母の体から靴をおろした。彼らもようやく病人だと気づいたようだった。そして、二人がかりで母の寝ている敷布団の両端をもちあげると、奇声を発しながら運んでいき、縁側から庭へセメント袋を投げるように投げだした。
そのとき私はどうしていたのだろう。大声でなにか叫んだ記憶があるが、その言葉はおぼえていない。
「かあさん!」
と、叫んだようでもあり、また、
「おとうさん!」
と、叫んだような気もする。自動小銃を突きつけられたまま、私と裸の父親は身動きもせずにそれを見ていた。
やがてソ連兵が目ぼしいものをねこそぎ持ちさったあと、私と父親は母親を抱いて庭から居間に運んだ。母はひとことも言葉を発しなかった。私と父親をうっすらと半眼でみつめただけだった。
やがて数日後に、その舎宅もソ連軍に接収され、私たち家族は母をリヤカーにのせて雨のなかを別な場所へ移った。
事件のあった日から、母はなにも口にしなくなった。まったくものも言わず、父親がスプーンで粥をすすめても、無言で目をそらすだけだった。
やがて母が死んだ。たらい水を張り、父と二人で遺体を洗った。
(中略)
それから五十七年がすぎた。私はときどき夢のなかで、庭から父と私に抱きかかえられて居間へ運ばれた母親が、かすかに微笑して、私たちにこうつぶやくのをきくことがある。
「いいのよ」
私と父親とは、母の死以後、ずっと共犯者としてうしろめたい思いを抱きながら生きてきた。父が死ぬまで、彼とはおたがいに目をみつめあうことが一度もなかったように思う。
父親はやがてアル中になった。そして引き揚げ後もさまざまな仕事を試みてはほとんど失敗した。小倉の競輪場で血を吐いてたおれたこともある。そして五十五歳で腸結核で死んだ。あれも父なりの母への責任のとりかただったのかもしれない。
こんな暗い話は、二度とかきたくないと思う。
(中略)
旧姓、持丸カシヱ。昭和二十年九月二十日。平壌にて没。享年四十一。