法政時代・卒業後の日々
 昭和56年(1981)6月5日に、木造の古い小高町公民館の日本間で「島尾敏雄氏を囲む座談会」が開催され、第37回芸術院賞を受賞し作家は父祖の眠る故郷に錦を飾る形で妻と息子を連れて親子三人で帰郷した。翌日はこの機会に壮年のいとこたちが親睦会を催し、小松屋旅館で宴席を張った。
 島尾氏は小高町で故郷の人々を前にみずから小高への思いを語った。この直接の機会に恵まれたのは、彼の従姉の佐々木千代さんと交流があったためだ。その年の八ねっ前に、島尾氏は宮沢賢治の原稿を書く雑誌の仕事で取材旅行に赴き、その途中に原町の従姉宅に寄った。この時は島尾氏と玄関先で挨拶を交わしただけであった。
 その後、わたしは法政の四年生になって、文学部日本文学科というのは、もともと戦後文学の旗手たち「近代文学」の主要同人であった荒正人や小田切秀雄が法政の教授陣に揃っていたからで、詩人の清岡卓行や三木卓などの講師陣の名にも惹かれて入学した。
小田切教授の講義は、かれの明晰な文芸評論そのままの、うつくしく緻密で知的な魅力にあふれていた。卒論の始動をお願いしに彼の研究室を最初に訪ねたときに、かれはちょうど出版社からの打ち合わせの電話をしているところだった。現役の文芸小論家は忙しく文学全集の企画の細部を詰めているような話の内容だった。わたしとの用事は面接の日程の打ち合わせで簡単に終わった。文学の世界で有名な活字でしか知らなかった人物の実像は精力的な活動する人間だった。
芥川賞を受賞した詩人たちの授業はさすがに人気があったが、授業のあとの神楽坂や九段下の喫茶店に流れて雑談する時間を最も期待したようだった。
自分の詩片を見てもらい、寸評を受けたり刺激的な接触で流行作家の放つ最先端の空気を楽しんだ。
清岡卓行、本名同じ。かれは高名な詩人であると同時に「アカシアの大連」という流麗な小説で芥川賞を受賞していたが、法政大学に近い水道橋の後楽園球場で行われる野球試合のカード組みあわっを担当するという珍しい職業をも兼任していて、ときどきオフの野球場の進行芝生の上に寝そべったりする情景が、瀟洒なエッセイに描かれていて、それが彼の人気でもあった。夫人に先立たれて、再婚相手にふさわしいと思われた新しい恋人たちが、いざ再婚しようとすると色褪せて行くという不思議な人生のアイロニー的な真実の姿をさらりと書いて、そこが彼の魅力でもあった。
本名富田卓はペンネーム三木卓は詩人としてデビューしたが、「震える舌」という自分の幼時の破傷風体験を描いてすばらしく感覚的に病魔に襲われた幼児をかかえた小さな家庭の凄絶な闘いを、ビビッドに表現して感嘆させた。ちょうどそこ時期の芥川賞の受賞と言うことがあり、我々の暮らすの授業では、多くが彼の著書をもちこんで自著サインをしるしてもらったりした。もちろん、ぼくもお願いしたが、彼は連日のマスコミの取材攻勢でへとへとに疲れているらしく、サインを書く手元が震えて文字が乱れた。
「あ、ごめん。別な本をあげるから」と、自分の持っていた同じ本にサインを書き直してから手渡した。
講義の空ている時間は目いっぱい教職単位を聴講していたので、けっこうぎっしりと詰まっていた。そんな中で、高名なあこがれの作家や論家たちの授業は楽しみであった。
荒正人は夏目漱石の研究家として日本随一の定評があって、しかし英文科なので私の所属する部ではので、単位はとれないが荒の授業にはもぐりこんで講義を受けた。どんな授業形態だったかといえば、彼の書いた戦後文学の輝かしい雄たけびや民主主義に対する頌歌ではなく、淡々と作文指導を行うといった高校の授業の延長のような印象だった。
前の週に出しておいた作文の課題のサンプルを講壇で読み上げる。それに批評してゆくというやりかたで一枠しゃべるという、力を抜いた内容で、ちょっと拍子抜けだったが、長く大学教授をやるには必要な対応なのかも、と思った。
いまどきの学生のレベルなので、平気で課題の夏目漱石と「瀬石」と書いていたらしく、荒教授はそのまま「なつめせせき」と読む。辛辣なかれの性格も、実物は行動も興味深かった。課題は、ハムレットに関してストーリーを他人に伝えるように簡略にまとめて書け、というだった。なるほど、作文の要諦の実態に沿うた訓練法を実地にやらせるという授業で、大学とはいえ、高校の国語の延長をやらざるを得ない事情もあるだろうと勘案したものだ。
それにしても原町という田舎の高校での教師たちの印象にくらべれば、かれらはことごとく輝いていた。東京に出て見る、という値打ちはあった。あれから40年の歳月がたって、とうじの法政大学を知る人物が、げんざい通院しているクリニックの送迎者の運転手をやっている。わたしの十歳年長だが、昭和50年前後の法政の空気について説明抜きで語れる話し相手としては、なつかしいし、楽しいものである。
で、毎週、彼とはクリニックの往復時車中のにわか同窓会をやっている。

ある日、原の町駅の待合室で、知人の松永章三氏から声を掛けられた。国語の教員が一人足りないので講師をやってみないかという。
相双新報という地域新聞の編集長になれといわれてその気になってなったら、半年で辞めてくれて辞めて、義兄のはじめたみうら食堂の出前もちを手伝っていた。
ひまをもてあましていたので、相馬農業高校の国語の講師をしばらくやった。
ぼくは地元の農業高校で教師を四年やる、という夢を持っていた。そのための努力もしなかったのにもかかわらず、思いがけずに松永先生の口利きで地元の農業高校の講師の職を得たが、賢治のように文字どおり4年やって辞めた。
宮沢賢治がそうだったからだ。もちろん、賢治は地元の花巻農業高校で農業を教えた。のちには農薬の肥料を普及販売する会社の社員などをやったりしたが、この時期には若者たちに自分の芸術的な宇宙観や文学観のすべてを注ぎこんだ。
この時に現代国語の教科書で島尾敏雄の短編も授業で扱ったことがある。