父が若い頃に機関士をしていたのはよく覚えてている。小学生の頃に、三交代の二十四時間勤務の泊まりの日には、夕刻母に命じられて原ノ町機関区の職場に弁当を届けた。だから、多くの国鉄職員の家が駅の近くに存在した。貸家も独身職員の下宿する家庭もたくさんあった。一緒に機関区の風呂に入れてもらったし、隆々たる肩の肉に肉体労働への神聖さをも感じてもいた。職場の機関士詰め所は、簡素ながらに磨き上げられて黒光りする木造の輝きにも、安全第一・整理整頓という楷書の警句告知の紙片すら謹厳であり、とうじの国鉄現場の標語であったのか「安全・迅速・快適・低廉」などのモットーがいかにも飾り気ない男の職場の質実剛健を主張し、ちょっと成人男性への畏怖もあった。それははるか未来のかなたの世界だったので、自分の所属する卑近な遊びの宇宙とはかけ離れていたから、接点はなかったのだ。
父の思い出はたくさんあるが、ほとんどが自宅のちゃぶ台か炬燵での会話が中心だ。ある年の、「坂」というお題の新年歌会始めの儀のあった時だったと思う。
調べてみると「坂」は昭和51年のお題である。
昭和51年歌会始お題「坂」
御製(天皇陛下のお歌)
ほのぐらき林の中の坂の道のぼりつくせばひろきダム見ゆ

 だから父は昭和50年中に、翌年のお題「坂」が発表されて以後に、宮内庁に投稿すべくひねって作歌したのだろう。

 家族の会話の中で入選者は、厳しく身分が調査され、ふさわしい清潔な職業や家族関係まで身体検査されるのだろうななどといった下世話な話題で賑わったことも覚えている。
 宮内庁に、もう実際にハガキをしたためて投稿済みだったんだ。

千分の三の坂を喘ぎて登りたる蒸気(かま)を焚きつつ初日おろがむ

というふうな歌を作って、得意げに家族に披露した。初日を拝む、という通常語のところを「おろがむ」という使いなれぬ馴染みのない古語を引っぱりだしてきたあたりが、尋常小学校の高等科卒の学歴を誇っているのか、卑下しているのか、金がなくて上級の学校に行けなかったという話題の多かった我が家の父にはふさわしい、ちょっと外連味である。
 機関士の実際の仕事の具体的な局面というのを全く知らない子供だったので、ヲタクでもなかったので、1000分の1という角度がどのくらいの勾配なのかを知らず、どの程度のエネルギーを要するのかを知らず、人力によって石炭をくべる労力、単位カロリーにも、まったく興味を持たずに、父の労働への尊敬も示すこともせぜ、まことに今更ながらに申し訳ないことである。記憶をたどって思い出す片句をつなげば、こんな詩句であった。微細な部分で違っていたかも知れぬが、落選句なのでたいして厳密ではない。ご免。