島尾敏雄チェック
p154
 平田良衛さんが「小高史雑記」というパンフレットの第19号を送ってくださった。
 その中に戊辰戦争余話として、脇本喜兵衛という相馬藩士のことが出ている。たしか肥後藩だったかの官軍と浪江で戦闘を交えたときに囚われの身となり、請戸川の橋上で殺された。「右腕を落とされたが、それでも顔色を変えず、左腕を落とされると、落とされた左右の肩を見て見事見事と敵をほめたので、官軍の隊長もおどろいて、さすがに相馬藩士とこれを大いに褒めた。しまいに首を落とされ、す巻にして川に流したという」と書いてあった。
私は小どものころ母方の祖母からよく昔ばなしを聞いたが、その中に戊辰の役のときのこともあって、脇本喜兵衛のその逸話も聞いていた。祖母が娘のころの事件で、祖母はあのへんによく見かける粘土層の横穴にかくれ、入り口の方は炭俵などをいっぱい積み重ねておいたという。さて祖母のはなしはちょっとニュアンスがちがっていた。官軍はまず左腕を斬り落としたので、そのとき喜兵衛は処刑者の顔を見あげ、イエゴイエゴと笑い、ブシダバ、ミギノカイナカラキレ、と言ったという。なんだかへんになまなましいはなしと思う。祖母は彼の名まえも口にしたはずだが、私はすっかり忘れていた。「小高史雑記」がその名まえをはっきりさせてくれた。そのほかに大悲山の大蛇の伝説のことも書いてあった。小高郷全体を泥沼にするという大蛇の野望を藩主に通報して大蛇に八つ裂きにされた座頭の名まえは玉都(玉市)であるらしいこともわかった、このはなしも祖母に何べんもせがんできりかえし方ってもらったもののひとつだ。その座頭の名まえも忘れていた。だいぶまえのことになるが、私は笛市と勝手な名まえをつけ、短いものがたりに仕組んでそのはなしをつくりかえしたことがあった。

P173
十二月八日 風が吹くのに寒い感じはしなかった。
 相馬の豊田田君仙子先生が亡くなったという知らせを受けた。咄嗟にもう一度いっしょにお酒を飲みたかったと思った。君仙子先生の死は私には相馬のいなかの終焉を意味するような気になった。彼の死は昔の相馬のすがたをも道去ってしまった。それは私の幼年の記憶とかさなるが、そのとき私はこの世の確かな手ざわりを疑ってみることもなく享受できた。あのどっしりした豊かな不断の世界はどこに行ってしまったのか。彼はその昔の手ざわりを思い起こさせてくれた。毎年送ってくださる柚子の実がこの秋は届かなかった、と気になっていたところだった。あの深い酔いの中で限りなくやさしくなっていた君仙子先生にもう一度だけでいいから会いたいと思った。それも昔の街道筋の名残を留めた鹿島の町の古い旅宿ででも。

十二月九日
  父のことを考えたら手に負えぬ気鬱にはまりこんだ。父の骨は京都の寺に預けたままになっていて、早く相馬に墓を作らなければならぬと思う。それは父の意志さからだ。そして本家の墓地の母と弟の骨も新しい墓に移さなければならぬ。父はまだ元気なころに墓の場所やかたちそして法事のやり方などのあらましを手帳に書きつけながら私に教えて、自分が死んだらそのようにしてほしいと言った。まるで気軽にどこか近所の旅行にでも出かけるような調子だった。京都での父の死の通知が名瀬に届いたのは、事故で入院中の私の状態が不安定なときだったから、すぐには知らせられず、ずっとあとになってそのことがわかった。だから父の葬式も知らぬままでいた。
日の移ろい 昭和51年11月20日 中央公論社
 
南島通信 昭和51年9月15日
P175 志賀直哉と私
P179 奥六郡の中の宮沢賢治
P222 般若の幻 埴谷雄高

Ⅰ 幼時と田舎
 p9 刀傷
 p10 馬
 p15 田舎の馬
p19 田舎
埴谷雄高 島尾敏雄を送る p359
埴谷雄高 あのころの島尾敏雄 p360
埴谷雄高 感覚人ホモ・センステイエンス島尾敏雄 p361
p543 昭和二十六年 湯槽のイドラ 小高町公民館報1・15
p548 昭和三十九年 二つの根っこのあいだで おだか 1(56)
p549 海岸線会報10(17)
昭和51年11月30日 島尾敏雄研究 冬樹社