10.15 ふっこうステーション講話イントロ

「滄海(そうかい)変じて桑田(そうでん)となる」となるということわざがあるが、その逆に「桑田(そうでん)変じて滄海(そうかい)なる」となってしまったといえよう。これほど苛烈な印象を与える被災地はなかったと思う。

現代イタリア音楽 音楽之友社 p530あとがき
 若き日の天野さんは地主農の息子さんだった。両親の亡くなられて後の天野さんは書斎の人で、農事一切は天野夫人が切り廻された。戦後農地を解放されてしまってからは息子さんが家事全般にあたられている。氏はいつかこんな感想を私にもらされた。
「若き日の私は親のすねをかじった。壮年の時は女房のすねをかじった。今私は息子のすねをかじっている。」 1960年6月 菅原明朗

近代文学という雑誌は、戦後日本の文学界の先頭を切ったグループでした。この中の同人のうちふたりが小高ゆかりの埴谷雄高と、鹿島ゆかりの荒正人。南相馬ゆかりの作家です。10月15日に小高で開催するふっこうステーション講座は、この戦後文学の黎明期にはたした小高の意味を考える会になりましょう。

近代文学 https://ja.wikipedia.org/wiki/
1945年、荒正人・平野謙・本多秋五・埴谷雄高・山室静・佐々木基一・小田切秀雄の七名の同人によって創刊され、1947年7月に第一次同人拡大により久保田正文・花田清輝・平田次三郎・大西巨人・野間宏・福永武彦・加藤周一・中村真一郎が加わった。その後も同人拡大が行われた。創刊当時の同人たちは、多くが戦前のプロレタリア文学運動の末端にいたが、戦時中の経験をとおして、文学の自律性を訴えることの大切さを主張とした。創刊号と第2号とで、小林秀雄、蔵原惟人という文学的に対極にあると思われていた二人を座談に呼んだというのも、かれらの観点を示している。
その後、かれらの多くは新日本文学会に加入したが、会の主流であった旧プロレタリア文学の流れとは距離をおいた。荒・平野と中野重治との、〈批評の人間性〉論争は、そのあらわれであった。1964年に終刊。
1960年に〈近代文学賞〉を設け、『近代文学』誌上に掲載された作品から優秀なものに授賞することとし、吉本隆明、辻邦生たちが受賞した。終刊の1964年まで、5回続いた。

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