父の手術から死去までの40日間は、日本の伝統的な神道の世界観の素朴な印象の中で、それに続く半年間は仏教の名僧列伝や概説書を耽読しました。
幼時から30歳までの故郷での平凡な暮らしの中で見聞きした風物を、いにしえの賢人たちがどう解釈し、学説としての宗教論に表現してきたかの概説をあらたまって見聞した気がします。
父の死が医師によって宣告されてから、とうてい恬淡と暮らすことも困難に感じられました。ある日朝食のときに、ふと人間はなぜ食べるのか、と思ってしまった。親父がいま死のうとしている時に、とても安穏と食べる気にもなれないのに、人間の生死を高尚な精神が高尚に悩んでいるというのに、そういう大事なときも肉体としての腹は減る。
別な用事で町に出た時に、野馬追という地元の祭りの準備で街中に馬に乗って通行する騎馬がわたしの車の直前にいて思わず止まってしまった。ふと右側に寺の山門が見えた。中の寺という曹洞宗のの野田住職の寺。アマチュア無線に興ずる新世代の僧侶だが、一度も法話というのを聞いたことがないが、比較的若い世代なので、聞いてみたくなった。
突然の訪問だったが、スクーターの野田さんがちょうど忘れ物をしたかで帰宅してきた。
「なんですか二上さん珍しいね」と、話を聞く態勢になった彼に改まって正直に問うた。
自分の父が末期の癌で死を宣告したこと。やりきれない気持ちで鬱屈して考え込んでいること。単純な問いではあるが、「親の死に目という人生の大事なときにも、人間はなぜ食わねばならないのかと、あさましくもあり不思議な感じもして考えてしまったのだ」と。
彼は実に率直でわかりやすく曹洞宗の教義を教えてくれた。
「わたしも深く研究しているわけでもないが、大学でこう教えられた。禅宗の開祖はダルマさんですが、達磨さんは、インドから中国にわたって仏教を伝えたが、壁に向かって洞窟で修行しているときに、弟子が同じ質問をしたそうです。人間はなぜ食うのですかと。そうしたら達磨さんはこう答えたそうです」「わが成道のためなり、と」
つまり仏教は人格の完成をめざすものですが、その道を成すこと、つまり人間の究極の目標である仏への道を完成させるためなんだ、と」
この教えは、この時のわたしにとっては衝撃的でした。どんな答えよりも、必要で十分な驚きにみち感動にみちた答えでした。
そいういう人生観を転換させる言葉を「一転語」というのを後に知りますが、まさに天地が動転するような一語でした。
食べることは栄養だの生存だのの理由ではなく、「成道」のために必要ならば、なによりも大事です。それならば、親の死に目だろうが、自分の生涯にとってこそ重大なことではないかと。
仏教が死者のためではなく生者のための教えであるとお釈迦様のいうとおり、葬式のためでも供養のためでもなく、まさに生きている自分のためのためのものだと実感しました。