復活祭の卵
復活祭の卵。英語でいうイースター・エッグ。教会行事では子供達のための楽しいお祭りなのだが、日曜学校に行ったこともなければ、家族そろって教会に行ったこともない私にとっては、全く異質なお祭りなので、なじみがなかった。ミズーリ州のアメリカ人の友人の家(宗派は父親の代にアーミッシュからカトリックに改宗したという)にホームステイした時に、ちょうどイースターにかかったので、友人は親戚の子どもたち(と自分たちのために)ゆで卵にていねいに彩色していたのが印象的だった。
私の父親が死んだ翌年の1985年5月からキリスト教に興味をもって教会に通いだした。1986年のイースターには、まだ教会の年間行事は何をどんな風にやるのかも分かっていなかった。それは異国の風習の一つでしかなかった。原町には福音教会、日本キリスト教会、カトリック教会の三教会があってどれにも顔を出していたが、私は教会内のおたのしみを求めていたのではなかったから、教会内の親子行事としての復活祭には興味がなかった。
しかし幼い素朴な信仰の芽を抱えた中年男にとって、孤独に自立しひとりだけで神の前に立つという局面では、教会内部の楽しいさんざめきは外部からはひどく寂しいもので、私には私の家庭の中であったかい小宇宙を主宰するほかに、私自身の神との関係という一大事がまず先にあった。
早い話が、子供たちがもらえる、あのきれいな卵をひとつ、私も欲しい、と年甲斐もなく素朴に思ったのである。しかしまあ、それぞれの教会で、子供達のおたのしみと、親たちの幸福そうな笑顔を羨望しながら傍観しつつも、私はどの教会の構成員でもないので、せいぜい取材で写真を撮影するぐらいのことで辞去することになる。
いずれにしても、イースターというのはキリストの復活とは何の関係もないのだ。卵の生命力に仮託した古代人たちの呪術的迷信というローマの習俗のいわば蛮風との古代キリスト教会の子供っぽいお楽しみとの習合文化ではないか。そんなもんに心を奪われては真の信仰を求める知的現代人としては破廉恥にすぎるではないのか、と内心自分をあざける気持ちが強いので、恥ずかしくて卵が欲しいなんて言えないのである。
しかし、それでもどうしても、欲しいんだな。あの卵が。
というより、神と人との間での特別な日に、つまりお祭りに、「私も」、あの卵でなくても特別な神からの贈り物が、その証が欲しいという感情なんですね。
しかし、やはり私は初心者でもあることだし、まだ教会に通って日も浅い。一緒に無邪気に楽しめる心の余裕などなくって、自分ひとりが世界の不幸を背負って深刻なつもりでいるのである。悲愴なる信仰で、神様、神様、私のための卵は、やっぱりないのでしょうね。俺はいちおう年齢だけは大人だし(当時30歳でした)、とか思って。
帰宅の途中に、自宅近くのガソリン・スタンドで。原町無線塔給油所というんである。
「満タン」と指示した。
「はい。満タンのお客様、本日、特別サービスになっております」
元気な若者が、会計してからおまけをくれた。
看板には、「日曜日、満タンのお客様に卵ワンパック、サービス」と書いてあった。
1986年。私自身のための復活祭の卵は、こうして手に入ったのである。