三条市の希望の町明かり

避難先の新潟から帰郷した人から聞いて少しずつ新潟での様子が見えてきた。最近では、帰ってくる人もあれば、流出してゆく人もある。まだ混乱は続いている。
昨年三月十六日、二度の水素爆発の直後に混乱の中で指示されて市民文化会館に集められた人々は、行方も知らずに手荷物だけで六台のバスに乗り合わせ午後四時出発した。雪片の舞い散る国道四十九号線を西へ。三条市総合福祉センターに着いたのは午後十一時過ぎ。深夜にもかかわらず市長はじめ職員、ボランテイアの方々が待っていてくれたという。食事と毛布、なにより熱い風呂に入れて、やっと生きた心地がした。「三条市の明かりが見えた時、生きる希望のともし火だと思った」という老婦人の話に涙がこぼれてきた。
いま南相馬市では、家族と離れ離れの将来を悲観して自殺者が出ている。帰還しても自宅や仮設住宅の高齢者が孤立死が相次いでいる。人は賠償金や食糧だけで生きられるわけではない。放射能に土地を奪われた人もいるが、暖かい心と希望がなければ生きられない。いまも新潟には同郷者がお世話になっている。フェイスブックで新潟の人々と連絡しつつ、献身的な新潟県の温情で、第二の故郷のような郷愁に似た感慨を抱きながら想像の中の三条市の町明かりに、希望の灯を感じている。

 

新潟日報