「猿の惑星 創世記」が公開された。メイキャップ技術で革新的旧シリーズの70年代から新シリーズまで40年の歳月が経ち、映画の技法も格段の進歩をして、特に特撮技術はコンピュータ・グラフィックでの画面構成は、さらに自由に洗練されている。

物語りも、新旧通じてのそもそもの発祥を解き明かすエピソード篇である。

文学の世界にはテキスト研究の分野があり、「源氏物語」も「聖書」も、冒頭のテキストは、後代になって付け加えられたものであることが判明している。

人口に膾炙する有名な長編物語の成立過程は古今東西同じで、口伝の口承文学でも、文筆によるものでも、編纂の時期を経て完成する。中心的な物語が評判になると、逸話が生まれ、時系列的な冒頭部分が読者によって要求され、期待されて後に添加される過程を踏むのだ。

映画「スターウオーズ」も、見事にそうした例を踏んでいる。「猿」も、その典型的一例である。

さて、「猿」とは、インドシナにおける日英戦争において日本軍の捕虜となったフランス人作家ピエール・ブールの体験から抽出された「日本人への恐怖」が、SFに託して日本人の世界制覇への揶揄を作品にしたことはつとに有名だが、黄色人種の日本人が台頭して白人の権威を覆した世界が、白人にとってどんなにか滑稽で悲惨で残酷か、という自伝的な異文化体験であり、西洋と東洋の出会いとカルチャー・ショックが、その通低にある深遠なテーマでもあるのだ。

彼の体験を生のままで表出した「戦場に架ける橋」では、タイメン鉄道の建設工事をめぐる英国軍人の気位とプライドの高さと、日本軍人の冷酷無比とを対比して描き、アカデミー賞を受賞し、世界中で名作といわれた。早川雪州という日系俳優が、冷酷無比な収容所長の日本軍人に扮し、サデイスチックな演技が話題になったほど。

だが、私怨と悪意にみちた意図が見透けて、いまだに日本人評者が「事実を捻じ曲げている」と抗議する。

皮肉屋ピエール・ブールは、「カナシマ博士の月の庭園」という別のSF短編で、別な日本人の描き方をしている。

米国とソ連が冷戦下で宇宙競争をして月への一番乗りを目指していた時代に、白人がつきに行くより先に、なんと先に着きに一番乗りしていたのは、日本人だった、という奇想天外な仰天話。

大国の米ソが膨大な軍事予算を投じて科学技術の粋によって月への一番の入りは、優れた白人種が実現すると信じていた世界は、劣等な黄色人種の小国日本が成し遂げていた、驚愕の理由とは。

米ソが無事に宇宙飛行士を地球に帰還させる技術を開発しているうちに、月に行くだけの片道燃料だけで、さっさと月に人類第一歩を実現していた、というのだ。

それでは、どうやって地球に帰還させるのか。日本人の思考回路が、白人とは違う。

月面で、日本人科学者カナシマ博士は、月面に日本庭園を造り、そこで一服の茶をたてて、やおら腹切りをして霊魂になって祖国に帰った、というお話。

不気味で神秘的な日本人の印象を強烈に揶揄した文化論的ブラック・ショートSFである。

日本人への恐怖が骨身にしみた捕虜体験で、猿(日本人)が人類(白人)を支配する未来とは、実は戦時下のピエール・ブールの過去を物語る自伝なのだ。

世界中の観客が、「猿」を冷笑し恐怖することを期待して、公然と復讐したつもりの作家だが、日本人は、核ミサイルで世界を破滅させる暴力的な白人文明に恐怖し、あんがい猿と人間の共存にこそ共感して「猿」を受け入れているのではないかと思う。

その後、「エンド・オブ・ウオー」という真実の「戦場に架ける橋」の物語が映画化され、旧篇の「戦場」が戦争アクションを売り物にした娯楽であるのに対して、ストーリーは同じだが、極限におけるキリスト教信仰の凄惨な勝利と東西文化の葛藤とが描かれた。戦後の日本と欧米との交流や相互理解にもとづく成果が、共同制作を通して「理解できない」から「理解しよう」へ、歩み寄った作品だ。