佐藤邦雄さま

かつての原町市よい映画を見る会が推薦した「金環食」という山崎豊子原作の作品がありましたが。山崎のものでは「不毛地帯」なども映画化され、日本では人気作家として高名ですが、若い私には社会的事件を戯画化しただけのマンガじゃないかと、密かに不満でした。しかも、一番いやだったのは、大物俳優といわれる顔ぶれを揃えて、庶民の生活とはかけ離れた上流階級の豊かで豪華な生活を映画の力で描いて見せつけるだけの内容で、しかもやくざ映画の登場人物と同じ顔ぶれで、少しも社会正義や人間の真実を追究したものでなく、登場人物がすべて類型的でワンパターンな点でした。従って、原作を読もうという気にもならず、日本映画の貧しさだけを感じたものでした。「わが青春のフローレンス」「木靴の樹」などの心にしみる映画がなぜないのだろうか、と思いながら。山田洋次の良心的ヒューマニズムも、硬直平板な印象でした。けっきょく古いビデオの日本映画に、良質な作品をみるようになりました。
山崎豊子が小説家になったきっかけは、テレビのインタビューで見たのですが、小学6年生の時の担任の教師に作文を誉められて「お前は小説家になれる」と言われて本気にして、この言葉のとおり、ものを書くことがとにかく好きになったという。好きこそものの上手なれ、という。12歳の少女が、のちの流行作家になった原動力に火を付けたのは、この担任の「誉め言葉」という魔法の呪文だった。
これまで様々な人物のインタビューをしてきて演繹した私の「人生10代決定説」を補強する一例です。シュリーマンの幼児期の読書体験、すり込み、動機付けというものの力の大きさを思い知ります。
しかしそれはともかく、山崎作品には「華麗なる一族」で銀行金融界、「白い巨塔」で大学医師、という具合に、この人には上流社会への歪んだ羨望があるのではないのか。人間造型も平板で類型的。原作でそうなのか、映画化と脚色の段階でそうなのかは知らず。原作を読んでみようとの感興は湧きませんでした。
「二つの祖国」というアメリカ日系人を描いた小説が大河ドラマになった時、海外移民を取材しはじめた私は、アメリカでの山崎豊子評を読んで雑誌に翻訳を紹介しならが、二世の心情を真には理解できていない一方的な日本人的価値観を持った作家であると断じざるを得なかった。アメリカでは放送予定が中止された。「大地の子」では中国残留孤児」をテーマにしたが、社会派というより、ジャーナリズムに乗っかっただけの「きわもの」作家だなと。毎回彼女の作品が裁判沙汰になるのは、モデルへの揶揄しかないからだろうし、一方的な単純化でモデルの遺族が立腹するからだ。しかも原作のベースにした実作ノンフィクションを多用に引用したり、ほとんど借用したり(つまり盗用や倒錯で訴えられるのが多い)と、彼女がやっていることは作家の文学の仕事ではなくテレビのプロヂューサーではないのかと。
佐藤邦雄先生が「沈まぬ太陽」の読後感を語った折りに、一人の日航社員が組合活動に専念していたせいで長期海外出張を強いられ、安全対策に尽力しながら、帰国後に彼を迎えていたのはジャンボ機墜落現場での遺族対策の役だったという、実在の人物をモデルにした内容に心ひかれ、以後、山崎への評価は保留にした。喰わず嫌い、思いこみ、決めつけが、いかに自分の思考を束縛して不自由にしているかは自覚しているから、ずっと心にかかっていたからだ。はしなくも、山崎の生前最後の映画化になるであろう「沈まぬ太陽」が劇場公開され、フジテレビで「不毛地帯」再作放送、「白い巨塔」再放送と、たて続けだ。それぞれに印象はあるが、やはり読むところまで達しない。
このところ、松本清張生誕百周年と入院が重なり、松本清張シリーズにはまっている。三浦じゅんの評論のほうが面白い。「知る得」という教育放送の文学評論番組です。
「沈まぬ太陽」に関して言えば、近時の9/11テロ事件で、アメリカのFBI主任捜査官が、正確なテロ予告を発しながら、CIAとFBIの確執のために閑職に追いやられた彼が、再就職先に行ったツイン・タワーで警備主任となって、実際にそのテロの犠牲になったという実話が、アメリカですでにドラマ化されている。
「沈まぬ太陽」と同じ御巣鷹山のジャンボ墜落事件を扱った横山秀夫の「クライマーズ・ハイ」をいま読んでおりますが、こちらは登山趣味の群馬県の地方新聞記者が、人間心理の深部を描いていて「これは文学だ」と感じ入り、「きわもの、とは違う」と思った。