k 原町キリスト教100年史 戦後篇 序

頌主。
天の父なる神様のご聖名を褒め称えます。
311から3年の歳月が過ぎました。
世の終わりが始まって、猶予の時期に入ったかのようなる印象さえ覚えます。
この数年、わたしの関心は、終戦後の原町の戦災地の荒野に岡田静夫・汐子夫妻が来て、すさんだ少年少女の人生を耕し、種を蒔いた福音をめぐる物語でした。
あの頃の少年少女が、人生の末期を迎え、その多くが昇天し、残された人々がわずかな記憶を辿りながら、世相の中のキリストが働いた歴史を再現する作業が最も深いテーマです。
原町という田舎町に生を享けた私が、少年時代に受けた影響ある人物の中に、N氏と、K氏というお二人とも、終戦後の昭和21年から原町教会に通い始め、22年に相次いで洗礼を受けたクリスチャンであることは、不思議な神の経綸としか言いようがありません。
軍国主義で教えられた少年たちが終戦で国の価値観が大逆転するのを目撃し、キリストの福音に出会ったこと。その二人に、愛されて励まされてきたことを。
彼らを通して、神様が故郷で私を見守って庇護してくださったのだなあと思いつつ、彼らの少年時代を追い求めています。
Kという人は、年長のぼくの親友で、原町の大きな遊郭(女郎屋)に流れ着いてつみついた女性の娘の子で、日陰の人でした。昔の遊郭は、性的なサービスのために、貧乏な家庭から少女を金で買って養女に入れて働かせ、自分の子を孕ませさたりする経営者があたりまえにおりました。
K氏の母は、その傍流の子なので、直系の経営者の子女とは兄弟姉妹であっても後継者ではなく、精神的にも屈折していただろうと推察します。
その異母姉妹にあたる主人筋の直系の長女が福島市内に住んでおり、縁があって日曜日の礼拝の後、訪問して、長時間インタビューいたしましたら、柳屋旅館の隣にあった田代という小料理店の跡に家を借りたというのがアッセンブリーの女のクリスチャン宣教師だった、というのです。
気になって、火曜日に再び訪問して、さらに深く質問して聞きました。
もっとも、本人は、昔特攻隊員を見送った思い出に浸って、少女時代から老境の現在までの長い物語を、時間を超越して喋るのを好きなように喋ってもらいながら、こちらの聞きたい項目を、すこしずつ聞き出すという気の長い聴取ですので、時間がかかります。
こちらから、岡田汐子さんという名前を出しましたら、まさにその本人のことを思い出したらしい話でした。
岡田夫妻が、昭和21年に最初に住んだのは、この盛り場の真ん中の、にぎやかな商店街の一角だったのです。
そこから歩いて10分ぐらいの、町の北に位置する、昔の役場の隣に明治に建てられた三角屋根の原町教会の教会堂に通って歩いたことでしょう。その途中に、朝日座という芝居小屋兼映画常設館があり、のちにN氏は婿に入って興行師になり、知的な文化人になりました。その彼も、いま老いて衰えました。
そして、くだんの女史は、杉山金一というおなさ友達の近所の少年とも大の仲良しで、家庭的な付き合いをして、母親通しも交流があった。なつかしい思い出話をたっぷり聞かされました。
また、Xという年長の少年のことも覚えていました。
複雑な家庭の子で、孤立していた。
熱心にキリスト教会の青年会会長を務めていたが、母子家庭の、、内縁の夫が、教会役員で、あるとき以来、この男性を拒んだことから、援助を打ち切られて息子に頼ったが、頼られた息子も大変だったのだろう、食事もろくに出来ないような青黒い顔をしていて、ぱったりその頃から教会に来なくなった。と、女史は証言したのです。
私が原町教会の戦後史を調査しているといって、しつこく電話し、手紙を送りつけ、若い時のことを聞き出そうとしたものだから「あの時のことは、思い出したくもない!」と、吐き捨てるように、普段温厚そのものの彼が、怒気をこめて語ったのが、すべてを証言していた。あの数年前のことが、理由がわかった。
HHG雑誌の、若いクリスチャンたちの、実生活は、かくのごときものでありました。
ひとりひとりに、重い荷物があったのです。
女学生が、明るい笑い声で、民主主義というすばらしい健康な新時代が到来した教会堂に、汐子先生というすばらしい文芸の女神がやってきて、静夫先生の罪の話を聞かされ、イエス様の贖罪と救いを聞き学んだときに、彼らがどれほど本当に魂を清められて救われたことか。
目に見えるように、わかってきたのです。
なぜ、神様が、私を、あの小さな町に生まれさせて、この小さな町の歴史の物語をおいかける一生の仕事に就かせてくださって、いまなお詳しく教えてくださるのかを。
在主

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