前略。

今は警戒地区に指定されている鹿島区の橲原築に文学好きの大塚春さんという人がいて、娘が原町高校の商業科に通学していた。私たちの教室は60人もの大きな教室が必要で中校舎のはじっこにあって、そのとなりが彼女の女子クラスだった。最初の詩集を、文芸部の顔ぶれにあげていたので、その母親から「二十歳のエチュード」という戦後もてはやされた原口統三なる自殺青年の遺書的エッセイの本をくれたことがある。

今から思えば、青春時代の純粋さだの騒がれて、世に流行したらしい本で、当時16歳だったぼくも「早熟な文学少年」に思えたのであろう。田舎では珍しかったからだろう。

あの頃は早熟で多少文才があって、感覚的な文章を発表して、」さっさと自殺してそまうような生き方が、かっこいいという日本文学の狭い世界の風潮があった。デカダンスの太宰治のような。

小さな原町には、学校の教員の文学愛好家が「海岸線同人会」というグループを作っていて、ひととおり県文学賞を受賞してしまって、目標がなくなって活動も下火になっていた頃だった。

いわば遅れてきた少年のぼくは、大人の彼に混じって最年少の会員として、田舎で唯一の小説や詩の雑誌の書き手になった。

高校の文芸部にも「萌芽」という年刊雑誌があって、ぼくが編集することになった。活字になれば何でよかった。

「十六歳のエチュード」というタイトルで、思い浮かぶままに、身辺雑記の出来事と思念とを、だらだらと書いた。

横山純一という同級生だったか一級上の先輩だったかが、「受験生ブルース」という短い戯文を寄稿したので、これも一緒に掲載しようと思った。

ところが文芸部の顧問の木幡テイ女史が、これは学校教育の場にふさわしくないので掲載に反対したことから、ばっさりとゲラの段階で削除した。

それで、幻の処女作となってしまった。

あの頃は、ガリ版で文集を印刷する程度の時代だったから、本格的な活字印刷というのは、一般の同人会か、学校の文芸誌ぐらいしか存在しなかった。

全国誌の俳句雑誌はいくらもあったが、俳句だの短歌だのといった伝統文学に興味はなかった。

戦後、桑原武夫という評論家が「俳句第二芸術論」という伝統文学は古くて遅れている、近代西洋文学のように詩や小説などが「大文学」であって、俳句や短歌は「お遊び」の趣味文学だというのだ。そんなつまらぬものはやがて消失してしまうであろうとの説だった。

問題なのは、この当時の地方の教員まで、この説の信奉者であることだ。

十六歳の頃に、すっかり刷り込まれた先入観というのは、なかなか脱せない。

俳句も短歌も、なくなりはしない。むしろ、ますます、その魅力と、大衆の支持がそれを支えるのだ。

流行の論に流されて、いっぱしの文学者気取りの、似非作家、似非詩人などよりも、生命力の源に直結した国民大衆が、万葉集の時代から脈々と息づいて伝わる韻律文学がどれほど偉大であることか。偶感。