広瀬座の映画記録

大正2年の梁川広瀬座組合決算報告が記録として残っており、これによると、 〔一、金拾円也 渡辺活動   一日分 一、金四円也 イムパテー 活動 一日分 一、 金拾六円也 尾崎 活動   一日分 一、 金拾四円也 団十郎活動   三日分〕  などの記述がある。イムパテーとはエムパテーの訛だが、福島座が明治末にエムパテーの名を冠した少年活動写真隊を雇っていたから、時期的にこれかも知れない。 〔主流は演劇で、活動写真の興行も行われている。広瀬座の使用料が一日五円を基準となっている。/大正三年以降の分は、板壁のらくがきで判明した分を列挙してみる〕と、旧広瀬座移築保存工事報告書にある。(付録「梁川町の芝居興行」より) 〔大正は珍十月廿一日/水戸トリ井座ヨリ来る/大入三日間〆切/新活動連鎖/泉一派吉野美好来る〕 〔大正九年○月廿八日/大入満員木戸止メ/日米同盟活動/長野一行〕などの映画興行の落書がある。  大正8年7月5日民報には〔梁川で評判のユニバース キ子オラマ 福島座と川俣座でも上映〕との記事がある。キネオラマは福島、川俣と融通したフィルムだろう。  同報告書「昭和戦前・戦後の興行」によると、〔昭和に入ると広瀬座は、芝居座とししてよりも、映画館として変身していった。二階には映画映写の設備をしている。〕とあり、〔梁川町史の資料から、広瀬座の状況を表示すると、次のようになる。〕と数字を引用。 〔昭和二年の興行 活動写真六四日〕新派演劇、浪花節、奇術、講談など合計92日。 〔昭和六年の興行 活動写真四〇日〕演芸、新旧合同劇、レビュー、民謡など合計57日で、映画興行が占める割合がきわめて高いことを示している。  〔この時代の入場料は、映画は大人一五銭、小人(子供)は一〇銭が相場で、桟敷席が一〇銭となっていて、そのほか、ナホリといって、普通入場者が桟敷席になおることもあったが、下足料は一〇銭で、当時の下足札が残っている。〕 明治に誕生した広瀬座は、大正12年ごろ、梁川町内の新井常太郎が活動常設にした。常太郎は戦後しばらくして亡くなり、小屋をひきついだ明治生まれのステヨ、大正生まれのチエ、昭和生まれの友子の女性三代新井家という家族の手で守られ生き延びた。昭和39年、ステヨの娘チエが、何とか「ばあちゃんの宝物」広瀬座を守って行きたいと夫の昇と映写技師をつとめながらあれこれ赤字の解消法を考えた。その結果、実入りのよい「汲み取り屋」を始めた。チエの息子の貞雄も東京の大学生活を送っていたころに知り合った友子と結婚。最初はきらっていたが、父を助けてバキュームカーのハンドルを握るようになり、借金を返して小屋を維持できるようになった。友子も映写技師になった。新井家という家族が守った広瀬座は、平成になって、文化財として指定を受けた。  筆者は梁川広瀬川の川岸にたっていた映画館の頃、広瀬座がまだ動いていた昭和50年代に見に行ったことがある。冬の日、すきま風の入りそうな寒々とした館はいかにも田舎の場末の古ぶるしい劇場で、情緒があった。斜陽の中で瀕死の状態だった小屋は、福島市の民家園に移築され創建当時の姿に戻った。  ひっきょう広瀬座は、今日もてはやされる芝居小屋としてではなく、滅んでしまったかつてのすべての映画館の幻影のように私には見える。