矢内原忠雄全集6 聖書講義1より 抜書き  ペンテコステの日の出来事は、聖霊降臨の唯一の形態を示すものではなく、また聖霊の唯一の働きを現すものでもない。  ペンテコステの日の前においても後においても、御霊は信ずる者の上にくだり、時に応じて必要な働きを示し給うたのである。  聖霊はいつでも烈しい風のような響と火のような形をもって望むのではなく、かえって「静かなる細き声」として、「息」のように静かに、信ずる者のたましいに吹き入れられることが普通である。エリアの場合がそうであり(列王記略上19の11参照)、イエスの母マリアの場合がそうであった(ルカ1の35参照)。かの聖霊派もしくは異言派の人々の会におけるような「騒ぎ」の中には、御霊は真の働きをもって臨み給うことはないと思われる。

二上注 おいおい。碩学の高徳のキリスト者学者にして、騒がしき聖霊派を切り捨てるごとき、決め付けをするか。それは単に好みの問題であろうが。日本のキリスト教の主流が、講壇派であるといっても、祈りのときに激しく騒がしく聞えるのは、たんに文化の違い、流儀の違いに過ぎないと思うのだが。知性人の限界なのかも。信仰がかろうじて「両者同一」という言葉でかろうじてまとめているが、肉体で感受しようという聖霊派の流儀が自分と違うからといって、「御霊は真の働きをもって臨み給うことはないと思われる。」という、みずからの知性に恃む断定は、人間の幅、信仰の幅、感性の幅を、狭めたものいいである。惜しい。

ヨハネ伝によれば、イエスは弟子たちにむかい、彼の昇天後聖霊が「ほかの助主」として彼らに遣わされることを、あらかじめ告げ給うた(16の7参照)。そして復活後彼は弟子たちに現れて、 中略 彼らに息を吹きかけて、 「聖霊を受けよ」 と言ひ給うた。これがヨハネ伝による聖霊降臨の記事である。  これによれば、イエスの復活・昇天後「約束の御霊」が弟子たちに注がれたときの形としては、ヨハネ伝の「息を吹きかけた」という表現と、使徒行伝の「烈風の吹きたるごとき響」「火のごときもの舌のように現れ」という表現と、二様の言い伝えに基く資料があったものと見られるが、弟子たちに御霊の注がれたことの趣旨・目的にいたっては、両者同一である。   原著者注 1 ヨハネ伝の「域を吹きかける」という表現は、英語の「インスパイヤ」に当り、霊の直接の注ぎ入れ、すなわち霊感をあらわす。これに対して使徒行伝の「烈しき風のごとき響」「火のごときもの舌のように」という表現は、旧約的である。前者はユダヤ主義にとらわれない表現であり、後者はユダヤユダヤ人に訴える表現である。

注というのは、読者に、本文をさらにわかりやすくするために字句や行に解説を加えるものだが、聖霊という具体的な存在あるいは事象について、文献(聖書)のみを対象に、自己の知性によってのみ納得できぬままに、ルカの聖霊降臨とヨハネのそれの差異を、読者に合わせての違いだといっている。  著者は、解説はしたものの、聖霊の実態を経験しての記述ではないことが伝わってくる。使徒行伝の記述が「見たまま」とは思えなかったのであろう。惜しい。