img024南相馬市の原町区にあった軍需工場は、陸軍飛行場に隣接していたために米軍の空襲で銃爆撃を受けて、4人の死者を出した。

東北で始めての空襲被害者だった。

あの日の朝も雪だった。
1945年2月16日。福島県原町は、青空の下で、突然の災難が降りかかった。

相馬商業は学校は、戦時中、工業科に転用されて、国民総動員法によって、軍需工場に徴用された。斉藤利夫君も、その一人だった。双葉町から通学する学生で、戦時中は、橋本町の真宗の寺に寄宿させられて、原町紡織工場で働いていた。

防空監視哨というのをご存知だろうか? 戦争相手の米軍の戦闘機や爆撃機の空爆を監視するために、空をみつづけていたのだ。

監視哨の退院には、女子生徒たちが電話交換手として東部軍管区司令部への通報に当たっていた。

米機動部隊の艦載機グラマン戦闘機の銃撃の弾丸は、原町の民家に残っている。

伊賀慶一郎日記との出会い。あの空襲を記録していた。
B29が高高度上空を飛行して偵察していたことも。
その記録も、米国国立公文書館で入手してきた。

鈴木小松訓導、大原、星の女子挺身隊員も、銃弾に斃れた。

終戦50周年に無理をしてまでも「はるかなりひばりが原 陸軍飛行場ものがたり」を出版したが、佐紀に出版した「原町空襲の記録」を福島県下にばら撒くのに、雑誌「政経東北」に、要約を掲載した。